1959年6月30日、米軍ジェット戦闘機が(旧)石川市街地と宮森小学校に墜落・炎上した。事故による死者は児童12人(内1人は後遺症による)を含む18人、負傷者は210人に及ぶ大惨事となった。
事故当時、児童はミルク給食を楽しんでいた。轟音とともに低学年教室を火炎が襲い、次いで6年生教室に機体が激突した。教師も児童も、わけがわからず「戦争だ」「戦争だ」と叫び、怒声が響いた。ひたすら子供たちは、「戦場地」よろしく逃げに逃げ、周辺の田畑、海岸へと駆け込み、父母の職場へと助けを求めた。学園は修羅場と化し、教室は業火に煽られ、衝撃でガラスが砕け散り、戸板に激突した者もいた。一瞬にして児童1,316人、幼稚園児200人の合計1,516人中、約1割の156人が重軽傷を負う、最悪の学園事件となった。
1960年前後の沖縄は、「相対的安定期」と言われ、「石川・宮森ジェット機墜落事件」に触れる研究者はほとんどいない。あってもせいぜい一行程度の記述で、「ジェット機事件一行史」と皮肉混じりに呼ぶものもいる。
本事件は、米軍統治下の大事故ではあるが、事件の凄惨さが言葉を閉じさせ、さらに被災者多数が肥厚性痕跡(ケロイド)を持つ児童たちであったため、事件からわずか数年後に人々の記憶から消えてしまった。しかし、記憶の継承は、学校や地域社会で形を変えて脈々と受け継がれ、2012年2月の「NPO法人石川・宮森630会」の設立とともに事件は再評価されることになった。
事件当時沖縄は、米軍の実質的な軍事支配下にあり、遺族や被災者とその家族を中心に損害賠償運動が展開されたが、日本政府は勿論のこと、琉球政府や(旧)石川市の支援もほとんど得られなかった。反面、米軍は、反米・反基地感情を最小限に抑えるため、様々な策をとり、最後には遺族や被災者賠償金に関わる委員会をワシントンに直接立ち上げ、特異な支払い方法・解決策を案出している。これとともに、米国民政府は琉球政府と連携し住民説得を計り、軍事支配を有利になるよう各種の施策をとったことが判明する。やがて事件は、「記憶の穴」に落とし込められ、「石川・宮森ジェット機墜落事件」は歴史家や政治学を始め人々の記憶から抜け落ちていくこととなった。
こうした中、「石川・宮森630会」は、米国公文書館が所有していた事件当時の米軍機密文書を入手し、事件から60年を目処に翻訳書を発刊することに決めた。私も翻訳監修に当たり、翻訳書は2019年6月20日、『資料集石川・宮森の惨劇-米国公文書館文書に見るジェット機墜落事件』という書名で公刊された。同書は、基本的には公文書を編纂したものであり、一般読者が手にして理解するにはどうしても通史や解説書の類が必要になろう。そこで私は、事件発生からその終息に至る過程を、内外の新聞紙、米国公文書、一般書籍、さらに体験者の証言録等を参考に、あらたに『あの日の記憶 石川・宮森ジェット機墜落事件』を書き下そうと試みた。
本書を契機に、「石川・宮森ジェット機墜落事件」が人々に膾炙され、犠牲となった多くの方々や被災者への鎮魂・慰藉となれば幸いである。