鄉土の歴史: 近畿編宝文館, 1959 |
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... いて政かどく、赦免に忠なし」といつて嘲笑したという。同じく駅波家でも義敏と義廉の長年にわたる争いがみられ、それは当時の実力者細川勝元・山名持豊(宗全)の対立ともからみ合って、不気味な政情をかもし出していた。とくに将軍義政は、嘉吉三年(一四 ...
... いて政かどく、赦免に忠なし」といつて嘲笑したという。同じく駅波家でも義敏と義廉の長年にわたる争いがみられ、それは当時の実力者細川勝元・山名持豊(宗全)の対立ともからみ合って、不気味な政情をかもし出していた。とくに将軍義政は、嘉吉三年(一四 ...
349 ページ
... いて弓ノ木城(岩滝町)に拠り抵抗したが、光秀は藤孝の娘を与えて和睦し、義俊に中・竹野・熊野三ヵ郡、藤孝に与謝・加佐両郡を与え、一色氏の居城宮津八幡城は細川氏に渡し、弓ノ木城を一色氏の居城となさしめた。しかしそのご藤孝の子忠興は、義俊を酒宴 ...
... いて弓ノ木城(岩滝町)に拠り抵抗したが、光秀は藤孝の娘を与えて和睦し、義俊に中・竹野・熊野三ヵ郡、藤孝に与謝・加佐両郡を与え、一色氏の居城宮津八幡城は細川氏に渡し、弓ノ木城を一色氏の居城となさしめた。しかしそのご藤孝の子忠興は、義俊を酒宴 ...
453 ページ
... いて、水陸両面から、大挙して兵庫に進入した。これを迎撃せんと、楠木正成は、会下山に本陣をおいて、和田山に陣した尊氏と相対した。正成は、須磨から進んできた足利直義の軍勢とたたかい、これを撃退したが、新田義貞の一軍は、和田岬・生田の森に転戦 ...
... いて、水陸両面から、大挙して兵庫に進入した。これを迎撃せんと、楠木正成は、会下山に本陣をおいて、和田山に陣した尊氏と相対した。正成は、須磨から進んできた足利直義の軍勢とたたかい、これを撃退したが、新田義貞の一軍は、和田岬・生田の森に転戦 ...
多く使われている語句
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