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チョ・パンサのいないドン・キホーテという大江健三郎氏 の評言が、すべてをいい尽していると思った。別のいい方 をすれば、ビラのイラストを挿入したり文字を変えてみた た りという、異化の手法を用いて一面で型の面白さを狙いな がら、何のアイロニーもなく主人公に、二十年前の流行イ デオロギーを唱えつづけさせているという作者の能天気な 脇の甘さが、この作品を実は型なしにしてしまっている。 むしろ作者はイデオロギーが型に吸い込まれて、完全に無 意味化されて行く残酷なプロセスをこそ狙うべきではなか ったろうか。

奥泉光『章と百合』、いとうせいこう『ワールズ・エン ド・ガーデン』の二作は、措辞と趣味は対照的ながら瓜二 つという印象を受けた。社会学・民俗学的な枠組を使って 小説を組立てるのが悪いとはいわないが、その結果が文学 になっていなければ話にならない。特に『章と百合』は意 味も無く長過ぎて、読了するのに苦痛を感じた。奥泉氏の 前作『滝』は、これよりははるかによかったと記憶してい る。松村栄子『僕はかぐや姫』は、「僕」が「わたし」に 変る瞬間だけが描けていればよいという小説なので、もし 四十枚以内でまとまっていればよい短篇になったかも知れ ないと思った。

大江健三郎

ひとり出産してその赤んぼうとともに少年の無償の支えな
しには生きてゆけない。そのもっとも苦しい時を、少年は
かれ自身意識しないほどの自然さの美しい資性で一緒にや
りすごす。少女にも、ひかえめながら誇りたかく忍耐して
いる魅力があって、かってテニス選手だった彼女が久しぶ
りに壁打ちをするシーンなど、あざやかなものだ。

ふたりのモラルの質の高さ、ということは、作者自身が
それを押し出すわけではないが、次のようなところに透S
て見える。《薄いベニヤの壁ごしに、呻くような男女の声
が聞こえはじめる。主人の出掛けに廊下で手話をしている
二人を幹が見かけて聾唖者だと知るまで、ぼくたちはその
声をセックスをしている声だとばかり思い込み、お互いに
目を合わせづらくしていたものだった。主人が帰ってきて
始まった、夫婦の団欒の情景をぼくは思う。さびしくもあ
たたかい心静かさ。
赤んぼうの病気をきっかけに、少女はおそらく子供の父

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の便宜上カットされたにすぎなともいえようが、しかしそ のあたりに、こちらの小説の主人公の自分自身へのまなざ しの稀薄さというような欠陥が由来していると思う

いとうせいこう氏『ワールズ・エンド・ガーデン』の
「ムスリム・トーキョー」の発想はめざましいも の だ。心
理治療の逆手の「解体屋」という専門家はじめ、鋭く呼び
かける力を持っている細部は多い。ところがムスリムのム
スリムたるところに関わる細部に、散漫な手ぬかりも見ら
れる。たとえばミナレット、それは本来尖った塔ではなく、
光の塔であることは語源的にあきらかだし、祈りの時をつ
げるためのバルコニーがなければ成立しない。才能にまか
せてちりばめたイメージ群を整理し文章をきたえること
で、この人の小説家への確かな歩みがきまるだろう。

右の作品が近未来に向けての「ゴシック小説」ならば、
奥泉光氏『章と百合』は近い過去に向けてのそれといいう
るかも知れない。「ゴシック小説」にたぐいする小説の書
き方は、ともすると筆力のある新人がおちいる民ではない
だろうか? そうしたことを賢明に承知して、逆に明るく
軽い小説を作った芦原すなお氏『青春デンデケデケデケ』
に、しかし新しい文学の方向があるとも思えない。新作家
にとって小説を書くことのいかにも難しい時代であること
が深く印象づけられる。いずれもそこでよく試みているの
だ。

筒井 筒井康隆

何のつもりでイラストを入れたか」という、全否定を背に
した疑問が中上委員から出て、これに対してなら「イラス
トや書き文字は本文の異化」「本文と有機的つながりを持
ち、それによってあきらかに効果を高めている箇所もあ
る」「その点カート・ヴォネガットに優っている」「この場
合イラストはまた、文章への攻撃でもある」と反論できた
のだったが、唯一支持する側にいた大江委員から「絵が下
手である」という指摘があり、このイラストを

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そのサンブルとして提示された時には残念ながら反論でき なかった。実はこんな下品な下町風にもおれは性的に魅か れていたらしいのだった。

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