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気になるものはなく、この作品などはその突破口になり得 るものであったのだが、やはり三島賞でも無理であった。 そういえばおれの推した作品、そうしたわが思惑のせいか 在任期間の四年に一度も通ったことがない。主張が一度も 通らぬままで終ってしまった。残念なことだ。

佐伯一麦「ア・ルース・ボーイ」は文学の正道を行くも のだと思う。大江委員の言う如く凡手ではなく、工芸社代のおれの体験からも、電気工事や下水工事のリアリズム 描写の面白さは抜群の文章力と断じられる。トラウマに苦 しみ、同じことを繰り返し書くという、おれとはまったく 資質の異った作家の存在を否定するほどおれは狭量では ない。しかし「雛の棲家」が第一回三島賞候補作となった 時に選評では誰もひとことも触れなかったことでもわかる ように、そもそも正統派の文学における期待される新人の ひとりとして埋没してしまいそうな存在だったのであり、 対象はすべてブロで単なる新人賞とは言えない 三島賞に、 これからどうなるかわからな い この作家では いささか困る のだ。小説の覇気を高める戦力に今すぐなれそうな人を 選びたい というおれの主張は、はて、間違っているかしら ん。

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編は長編の力や魅力、中編は中編の、短編は短編のそれら
を考慮するはずである。私はそうやって力と魅力を考慮し
ながら読んで、まず長編三作は、その力と魅力を提示しそ
こねていると判断した。長編を書く労力を思いながらも、
三作が三作ともどこか読者を置き去りにし、ここを読ま
せたいというものが空中霧散し、結局は三作の作者の意
匠だけが目立ってしまうという結果になっていた。残念で
ある。

たとえば「煮と百合」のゴシック小説風な、中井英夫風
な小説を例にとれば、小説が進めば進むほど言葉がから
まわりし、そのうち言葉のからまわりに酔ったようにな
りはじめる。これは言葉のたれ流しというものであろう。
奥泉光は事物に即して言葉を使うべきである。短編で注目
を集めた文章は、長編という器なき器の中に入ると、ぐん

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見えるのである。賢いやり方ではないが、正当なやり方で ある。おそらく書かれてある事は実際にあったのであろ う、焦点があったりブレたりしながら書き進められた事を 読んでいて、ふと天性の語り手であった太宰治の持つ甘い 柔らかい思春期初期の感性と同じ物が漂っていると感じ、 私はこの人は瑕瑾すら可能性に変える魅力をそなえた作家 だと気づいたのである。つまり地金が出れば出るだけ大き くなる。一部の批評で他の作品で使われたエピソードがこ の作品でも使われているという指摘がなされていたが、選 考会では誰もみれなかった。それで私の方からあえて記者 発表の時持ち出したのであるが、ここで念の為、書くが、 そのエピソードは作者の精神的外傷に当たる部分である。 少年の頃、男性から性的暴行を受けた。作者は十七歳の少 年の性の成熟を書く過程でそのトラウマを今一度、描かれ ばならなかったのである。トラウマを別なものに取ってか える事が出来るならこんな楽な事はない。だが画家が画面 のどこかに自画像を描き込むように、トラウマはあらわれ る。このエピソードがある故に、読者である私たちは十七 歳の少年の精神分析すら行うのである。暴力への忌避と思

。自己破壊衝動。母への思慕と叱責。少なくとも日本の 近代文学はそこに表現を与え続けて来たのである。

宮本

受け容れられている時代だというだけの、おそまつな現象
を呈しているにすぎないのではないだろうか。

今回、第四回目の三島賞を受賞した佐伯一麦氏の「ア・
ルース・ボーイ」は、氏の、第一回目に候補となった作品
よりも数段に腕をあげている。腕をあげた〉とはどうい
うことなのかについて少々屁理屈を述べれば、内側に澱ん
でいる何物かが、聞こえるか聞こえない かの低い声で、作
品のあちこちから絶えず滲み出てくる書き方を手の内にい
れたと感じさせるようになったということになる。

佐伯氏の内的生理は、高校を中退し電気工として働く主
人公の、汗まみれの労働と心情を丁寧に武骨に描写しつつ、
そこに何かよるべない 病質を浮きあがらせている。

だから、「ア・ルース・ボーイ」という正攻法の、てら
いのない、地味な小説は、主人公の子供ではない赤ん坊を
ともなって主人公と暮らし始めた幹という女を、一輪の鮮
かな花のように咲かせ得たのだと思う。

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葉を、奥泉氏に考えてもらいたいと思う。引用した文章の
ようなものを、もし英泉氏が名文だと悦に入っているとす
れば、それは大きな錯覚である。この「葦と百合」を三回
に分けて、三百枚ずつ掲載した編集者にとっても、そこの
ところは課題ではないだろうか。

しかし、推理仕立てであるにせよ、理屈とボ キャブ ラ
リーを多用した横溝正史的〉な作りであるにせよ、奥泉氏
の、物語りた S という衝動は、Sっか氏独自の文学を作り
あげるかもしれない。そのときを待ちたいと思う。

いとうせいこう氏の「ワールズ・エンド・ガーデン」
は、テレビゲームのソフトのための長い長いシナリオとい
ったところで、小説になっていない。現代風のカードをた
くさん並べたかといだと感じた。私は〈あとがき〉ま
で読んで、腹がたった。小説を書くことは、いとう氏にと
ってはゲームなのだろうか。私はゲームなんか読みたくは
ない。

松村栄子氏の「僕はかぐや姫」は、才気を感じさせる。
しかし、思春期の少女が、自分を〈僕〉と呼ぶことなど、
別段珍しくはない。〈僕〉が、ある日、主人公のなかから
去っていくときの、外的、あるいは内的な変化は、これ
以上は言葉にできない〉領域なのだから、松村氏はそこを
書き込まなければならないのではあるまいか。そこを書い
てこその文学ではないかと私は思う。

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