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と思いながら、私は祝いの席に出なかった。

長崎まで出かけなければならない、億劫な
思いがあった。それに、八十五歳を越してか
ら急速に幼児の世界に踏み入った母を、単純
に祝う気にもなれなかった。

末っ子の母は、故人になった兄や姉の子供
たちから、おばさんおばさんと慕われて、珍
しく声をたてて笑っていたそうな。

そういえば久しく、母の笑い声を私は聞い
ていない。三年前私の家に遊びにきたとき
も、私たち姉妹がしゃべるのを、遠い人をみ
る目付きでみていた。子供時代の楽しい思い
出話をしても、微笑も浮かべなかった。悲し
みや喜びの感情を汲みとるひだのようなもの
が、なくなってしまったのだろう。それと
も、この世に笑えることなどなにもない、と
思っているのだろうか。

世話をしてくれている姉の話によると、最
近は外にばかりいきたがるそうだ。散歩に連
れて出ても、帰ってくるとすぐ玄関にいっ
て、下駄をはいて待っていると い う。 本人
は、数年も前に亡くなった兄や姉たちに逢い
にいくといって、あてどもなく坂道を上がっ
ていく。この世もあの世も、住み慣れた町も
もうろうと霞んでいるようで、この世の出口
をまさぐっているようでもある。半月ほど前

は、歩きすぎて道に迷って、駄菓子屋さんで
道を訊ねているところを、顔見知りの近所の
ご主人に助けられた。他人さまの自家用車に
乗って、ゆったり寛S表情で、ご心配をか
けました、と挨拶をしたそうである。自家用
車の持ち主は親切な人で、このおばあちゃん
をみかけたらここに電話をしてください、と
駄菓子屋さんの黒板に、姉の家の電話番号を
書き付けてくださった。

姉から話を聞いて、地域社会のぬくもりが
残っている町の人情に、心がうるんだ。年を
重ねて母のような立場にある人だけでなく、
暖かい 目は、近所の子供たちにもそそがれて
いるのだろう。親切な目は、ときにわずらわ
しい、目引き袖引きの噂話に変わることもあ
るだろうけれど、地域の人が地域の子供や老
いた人を見守る目は、有難い。母のように幼
児に戻ると意識が鮮明なときは大人なの
で、迷子札を嫌ってはずしてしまう肉親
はとにかく、近所にまで迷惑をかけることが
出てくる。家族の手に余ることが、たびたび
らしい。

ごくごく最近は、母は時代劇の世界にあっ
て、姉の家の戸や襖を叩いて、開門!"と
叫んでいるそうである。母はどこにいきたい
のだろう。

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すなわち、東大だとおもっていた》
《ピノキオのゼペットじいさんは、サメに食
べられてしまったけど、金魚は、えりちゃん
に食べられてしまった。ピノキオは、おとぎ
話だけど、えりちゃんの金魚は、現実だから
心配なのだ》

といった具合で、「すなわち」だの「現実」
だのと、たしかに尋常の六歳ではなさそう
だ。とはいえ作品の中身のほうは、妹のえり
ちゃんの髪の毛がクルクルになると雨が降る
ことがわかり、天気予報への貢献が認められ
て表彰を受ける。そのえりちゃんが飲み込ん
でしまった金魚を兄である龍之助が呪文で吐
き出させてやるなどなど、なにやら他愛がな
S。審査員の一人であるSF作家・光瀬龍氏
によれば、「大人ではとても考えつかない奇
想天外、荒唐無稽な物語の展開」とのことで
あり、同じくSF作家で審査員をつとめる南

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には驚嘆するばかり。虫や魚の名前をこんな に覚えさせてどうなるのだろう。時として は、死とは何かを子供たちに教えようとする 異色絵本が登場したりもするが、それとて、 「年をとるにつれて人間の体はあちこち が ビ ラビラになり、死んだあとは土に埋められて ドロドロになる」といった具合。体がビラビ ラになるなどといったことを、なぜわざわざ 教えなければならないのか。自然科学信仰が 行きすぎて瑣末主義に落ちこんでいるのだ。 自然科学だけではなく少しは社会科学のほう へも目を向けさせたらいかがなものかと思う が、それと同様、品物に名札を張って漢字を 覚えさせるやり方が、いささか、古典派とし てのこちらの神経にひっかかる。名札をつけ られないものはどうなるのか。魚や虫が好き なら、それでやって行くしかない。名札での 勉強が面白ければそれもまた仕方がない。時 代はかわっても子供は子供。親の目をすりぬ けて、名札のついていない何物かを自分の手 で獲得して行くはずだ。とは思うものの、名 札に囲まれた子供という構図からは何やら南 然としたものを覚えずにはいられないのであ

のために、人類は子供を生む能力を失ってし まっていたのだ。ときたま何かの偶然で子供 が生まれ、それが発見されると、パレードが 組まれて住民の観覧に供される。見物人は、 そのほとんどが老人ばかり。 子供たちは人びとの歓呼の声に送られて帰 ってゆき、多くの見物人は涙ぐんでそれを見 送った。何人かの老婆は手ばなしで泣いてい た。呼び売り商人はハンカチを売りあるい て、有利な商いをしていた》

ブライアン・オールディスのSF小説『子 どもの消えた惑星』 (深町真理子・訳/創元 推理文庫)はそんな話だが、東京の郊外に住む 私などにしても、近頃はとんと外で遊ぶ子供 の姿を見かけなくなった。塾帰りの子供たち を目にするだけで新鮮な気持になるほどだ。 フランスは文学の国だが、児童文学だけはば っとしない。少し大きくなるとたちまち恋愛 の魔力にとらわれてしまい、子供時代が短い のが児童文学低調の一因なのだそうだ。六歳 児の文学賞受賞という今回の出来事も、子供 の大人化が進んでいることを示すものなので はあるまいか。やがては日本でも子供の存 在そのものが消え去り、ときたま出現す 「遊ぶ子供」の姿が人々の涙をさそうことに なるのかもしれない。

(了)

る。

頃は二十一世紀。どこを向いても、子供の 姿が見あたらない。地球規模で起こった変事

北区滝野川の陸橋を渡りながら、つらつら 見れば、なるほど昔はこんな「モダンな」欄 考えた。

なぁ、と、そこはかとなく

であるから、このエッセイを読んでも時間の 形の橋はちっとも珍しくはなく、どこにだっ

無駄である。なにが「ア、ア、アアア」かと てあろありふれたデザインに違いない。よく

てのデコボコ(または凹凸)が施されている
例が少なくなかったように思われる。おそら
くそうした近代的趣味はアメリカがその発信
地だったのだろうと想像され、広く見れば、
そのころのラジオとかトースターとかいった
家庭用品のデザインにもある共通した凹凸の
趣味が認められるであろう。

ところで、大切なことは、こうした建物の
趣味がいずれも無名の(たぶん建築会社の)
設計者の想に出たものだということである。

歴史というものの皮肉は、「当り前の事柄
は残らない」ということである。歴史は普通
の無名の市民が日々営んできた「当り前の生
活」を、ある意味で無視するところで成り立
っている。大きな事件、偉大な人物、そうい
う普通でない事実の店大な集積をわれわれは
「歴史」というのであった。そうしてみると、
たとえば建築の歴史というようなものも、ガ
ゥディ、ル・コルビジェ、いわば普通でない
建物、偉大な建築家の作品というエキセント
リックなものの集積にはかならない。しか
し、ほんとうのところ、戦後の木造平屋の都
営住宅の哀しいような陰路、公団住宅のあの
殺風景な連なり、はたまた今日各地にはびこ
るタイル貼りの「高級マンション」、そうい
う無名のなんでもない建築の集積としての風

員が、その時代の風景というものなのだが、 幸か不幸か、わが国では、ひとつの時代の風 景を破壊してそれに置き換える形で次の時代 の様式が現れる。一方、イギリスでもフラン スでも、地震のない これらの国々では、旧様 式は原則として保存されながら、並立的に新 しい様式新しい風景が現れるのである。これ はヴィクトリアン、あれはチューダーと数百 年来の諸様式がそれぞれ重なりあいながら、 全体として風景を形成してゆく国々と違っ て、わが国はどんな建築にも「耐用年数」と いう限度があって、それを超えることは原則 として許されない。

かくて無名性のなかに息づいている時代の 様式やそれに支えられた風景は、やがて私た ちの前から跡形もなく消えて行ってしまうで あろう。その中であのデコボコのように、た まさかの礎によって生き残った「時代の破 片」は、都市の片隅で、人に知られないよう なかそけさで、それらを「珍し」として観察 する人を待ち受けているのかもしれない。今 日ではすっかり「珍しい」ものになってしま ったこれらの景色は、実はかつて最も普遍で あったもの、つまり無名の人々の手に成る「無 名の様式」のかなしい生き残りなのである。

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