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1991

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のまま現在の写真の多彩な状況に通して S

る。

8x10のカメラによって撮り続けた。彼は当
時でさえ時代遅れとなったカメラと感光材料
に固執している。アジェがプリントしたまま
の写真が並べられていた。見慣れていたし、
展示にさしたる工夫があった訳ではない。に
もかかわらず、アジェの写真が私には新鮮に
眺められたのである。

百年も前の写真だから、かえってもの珍し
く見えるのだろうか。そうかもしれない。ア
ジェは自ら「写真による古いパリ蒐集の作家
・編集者」と名乗っていた。彼が撮り続けた
のは、二十世紀のはじめに近代都市として生
まれ変わってゆくパリだが、エッフェル塔や
地下鉄といった新しいものには興味を示さな
い。撮った対象は、古い建物、その装飾、路
地、アパートの中庭、物売り、娼婦、屑屋、
いずれも失われ、消えて行く街並みや風景ば
かりだ。彼の写真は私に郷愁を誘う。しかし
それだけならば、私の目をこれほど惹きつけ
ることはない。他にも当時の情景を撮った写
真はある。三十年足らず前の写真にさほどの
新らしさを感じず、百年前の写真 に新鮮さ
を感じるのは、別の理由があると考えられ

ところが、会場を一巡りしてみると、私は
奇妙な感慨に陥った。一つひとつの作品は個
性的なのだが、全体を眺めてみると、各写真
家の、その個性が印象に残らないのだ。大半
の作品を私はすでに知っていた。見慣れてい
たために、新しいと私の目には映らなかった
のかもしれない。各々の写真を私は、判型も
紙質も異なる写真集で見ていた。そこには独
自の表現が凝らされていたのに、展示ではす
べての写真をほぼ同じ大きさに焼き直して並
べられていた。だから一様に見えたのかもし
れない。ともかくも、そう自分で納得してい

た。

る。

三日後、アジェ展を見た。アジェの写真も よく知っている。いや私は繰り返して彼の写 真集を眺めている。アジェは十九世紀から今 世紀の初頭にかけて、パリとその郊外の街を

アジェの写真に比べると、六十年代の写真 がどこか苦し気に見えてきた。各々の写真家

が膝までくらいの浅瀬で「水の中で泥土を海
り漉しながら」、「ウッチャリ拾ひ」が働いて
いる。「ウッチャリ拾ひ」とは、人が捨てて
しまった物を河口で拾いあげて、なにがしか
の金銭を得る仕事である。露伴はこの仕事
を、「神聖なる労働は空しく海中に乗って仕
舞ふべきものを取り上げて、復び人間の用に
供するのである」と眺める。友人も同意す
る。こんな会話を交わしているうちに、「潮
の募るに連れて風も募って来て、顕然として
快い南風が一、吹き吹いて来ると、船は忽ち
に走り上った。ウッチャリ拾ひ先生の姿は見
るく小くなった」ところで終わる。

露伴は「ウッチャリ拾ひ」を単に塵芥を拾
い上げるだけの仕事として見ていない。「天
の力、地の力、意の力、智の力、技術の力、
筋肉の力、此等の尊ぶべき力より生じた物」
があたら棄てられてしまうの を、「ドッコイ
と半途で喰ひ留めて復人間の世のものにす
る」ことは、「大慈大悲の本願から聖賢権者
が」地獄へ行きそうな亡者たちを救う功徳に
通していると考えている。

当然ながら露伴が「ウッチャリ拾ひ」なる
職業に眼を止めざるを得なくなった背景に
は、物を利便だけでしか捉えられなくなって
しまった多くの都市生活者がいる。私にはア

ジェの仕事が「ウッチャリ拾ひ」のように思
えてならない。失われ、消え行く都市の姿を
古いカメラと感光材料によって、救い上げた
のではあるまいか。そして彼の写真が いまも
新鮮に私の目に映るのは、物や街がまたたく
間に使い棄てられる状況が一層進んでいるか
らではあるまいか。物ばかりではない、言葉

、図像も、いや個性的であることさえも、
次々に消費され、棄てられる。六十年代の写
真はたしかに現代に繋がっている。私がそれ
らの写真からさほどの新らしさを感しなかっ
たのは、すでに写真集で知っていたからでは
ない。当時の写真家たちが切り拓いてきた技
法や対象が、そして個性さえも消費されてし
まったことを意味している。

私のいうことは大仰だろうか。アジェの会
場で二人の若い女性が語らっていた。ース
ッゴク、可愛いの、古いんだけど―あれ見
た、メチャ可愛S―。アジェの写真のなか
に振られた物を見て、しきりに話し込んでい
た。たわいもない会話だとはいえない。とこ
にアジェの写真への「本願」が あ り、「ウ
チャリ拾ひ」の功徳があるように思えたのだ
った。

(了)

どんさ

は、中西部の大地をうたい、ロバート・フロ ストのあとを継ぐ詩人と呼ばれてい

ボール・ハミルトン・エングルは一九〇八 「英文学は死体の解剖や検証をしているよう 大学院生の

に参加しているから、アイオワに滞在したわ か文壇の人たちもかなりの数に上ることだろ

う。

7に行った一九六四年にはジョンソン大統領 ちが生まれた。一九六〇年代には、フィリッ
の顧問(芸術部門担当)を兼ね、彼は「アイ プ・ロス、ジョン・ チーヴァー、カート・ヴ
オワの誇り」になっていた。

ォネガッ ット、ジョン・ベリーマンたちが講師
私は比較文学科のフレ ・ウィル教授と を務め、ジョン・アーヴィング、ロバート・
組んで、日本の短編小説の英訳をしていた クーヴァー、レイモンド・カーヴァー、ジョ

アイオワにいたとき、エングルさんは昼間 でも時間ができると家へよくやって来た。フ ットボールを見つけると、私の息子を表に連 れだしてキャッチボールに熱中したし、娘が 大きな人形を抱えていると、すかさず人形を さして「この子の名前は?」きいた。いつ も目のまえに夢があって、時間をすみずみま で使いこなす力にあふれていた。一昨年アイ オワの友人に会ったら、こんな話をしてくれ た家の前 と、「ボール、おやめなさい」という夫人の かん高い声が何度も聞こえて来た(これは二 度目のホアリン夫人。中国人作家であり、国 際プログラム創立の協力者になった)。振り 返ってみると、エンクルさんは屋根のてっぺ んにいて、修理に精出していた。八十を越え て心臓も悪いというのに、あの人はネバーギ ブアップだよと言った。......三月にポーラン ド政府から招待されたときにも、正装して飛 行場にいったにちがいない。万がいちの覚悟 もしていただろう。もう誰もそれをとめるわ けにいかない。

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