気になるものはなく、この作品などはその突破口になり得 るものであったのだが、やはり三島賞でも無理であった。 そういえばおれの推した作品、そうしたわが思惑のせいか 在任期間の四年に一度も通ったことがない。主張が一度も 通らぬままで終ってしまった。残念なことだ。 佐伯一麦「ア・ルース・ボーイ」は文学の正道を行くも のだと思う。大江委員の言う如く凡手ではなく、工芸社時 代のおれの体験からも、電気工事や下水工事のリアリズム 描写の面白さは抜群の文章力と断じられる。トラウマに苦 しみ、同じことを繰り返し書くという、おれとはまったく 資質の異った作家の存在を否定するほどおれは狭量では ない。しかし「雛の棲家」が第一回三島賞候補作となった 時に選評では誰もひとことも触れなかったことでもわかる ように、そもそも正統派の文学における期待される新人の ひとりとして埋没してしまいそうな存在だったのであり、 対象はすべてブロで単なる新人賞とは言えない 三島賞に、 これからどうなるかわからな い この作家では いささか困る のだ。小説の覇気を高める戦力に今すぐなれそうな人を 選びたい というおれの主張は、はて、間違っているかしら ん。 編は長編の力や魅力、中編は中編の、短編は短編のそれら たとえば「煮と百合」のゴシック小説風な、中井英夫風 見えるのである。賢いやり方ではないが、正当なやり方で ある。おそらく書かれてある事は実際にあったのであろ う、焦点があったりブレたりしながら書き進められた事を 読んでいて、ふと天性の語り手であった太宰治の持つ甘い 柔らかい思春期初期の感性と同じ物が漂っていると感じ、 私はこの人は瑕瑾すら可能性に変える魅力をそなえた作家 だと気づいたのである。つまり地金が出れば出るだけ大き くなる。一部の批評で他の作品で使われたエピソードがこ の作品でも使われているという指摘がなされていたが、選 考会では誰もみれなかった。それで私の方からあえて記者 発表の時持ち出したのであるが、ここで念の為、書くが、 そのエピソードは作者の精神的外傷に当たる部分である。 少年の頃、男性から性的暴行を受けた。作者は十七歳の少 年の性の成熟を書く過程でそのトラウマを今一度、描かれ ばならなかったのである。トラウマを別なものに取ってか える事が出来るならこんな楽な事はない。だが画家が画面 のどこかに自画像を描き込むように、トラウマはあらわれ る。このエピソードがある故に、読者である私たちは十七 歳の少年の精神分析すら行うのである。暴力への忌避と思 。自己破壊衝動。母への思慕と叱責。少なくとも日本の 近代文学はそこに表現を与え続けて来たのである。 宮本 輝 受け容れられている時代だというだけの、おそまつな現象 今回、第四回目の三島賞を受賞した佐伯一麦氏の「ア・ 佐伯氏の内的生理は、高校を中退し電気工として働く主 だから、「ア・ルース・ボーイ」という正攻法の、てら 葉を、奥泉氏に考えてもらいたいと思う。引用した文章の しかし、推理仕立てであるにせよ、理屈とボ キャブ ラ いとうせいこう氏の「ワールズ・エンド・ガーデン」 松村栄子氏の「僕はかぐや姫」は、才気を感じさせる。 |