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美とは魂の純度の探求である他の一切のものはこれ に反する。

解るとは、解った人間の血が夜泣きをするやうな事を 言ふので、その外に解ったといふ事に意義もないので

ある。

*

善は悪の対象だが、悪は善の対象では無い。悪は万物 の源動力である。

世に直観といふものは無い。直観と主張する『経験人』 がある許りだ。

対当でない相手と喧嘩はしない 世界的常識

*

糸の無いたこがブンく揚つてゐる。心棒の無いコマ が頭を振廻してみる。眼のある場所に耳が二つ並び、 耳のところに眼玉が附いてるのは、まるで馬のやうだ が、鼻の下を見れば口が縦に付いてみた。おまけに脳 みそはまる出しだ。

*

神は最善の美だだから美には係らない。不徳と美は 悪魔の双児である。

(了)

た。私は文革の発端期と言ってよい一九六六
年八月、北京の太平湖で入水自殺した老舎の
ことを短篇小説(『中央公論文芸特集」春季号)
に最近書いている。入水の前日、老舎は紅
衛兵の糾弾集会でつるしあげられ、とんが
り帽子をかぶせられ、罪条を記した看板を首
から釣るされるという屈辱を受けたらしい。
昔、中野美代子の紹介していた文によると、
老舎は入水の時、「作家老舎之亮」と自らし
たためた布片を体に巻きつけていたという。

年、私も中国に行って少し老舎のことを調
べたが、老舎入水後、太平湖は文革で圧迫さ
れる人たちの自殺の聖地になり、毎日数十人
が入水自殺したという。そして、その話を、
かっての紅衛兵で今では北京の大学で日本語
を教えている人に伝えると、同じ湖で毎日数
十人の自殺者があったなどとは全く知らなか
ったと顔色を変えた。その人も四十を過ぎた
人である。

アジテーションに弱い若い紅衛兵が権力争
いに利用されたとしか思えない文革に、その
初期にしろ、本当に何かいいものがあったの
か、とても信じられないのである。

対談の本題である高橋和巳の文学を回顧す
る部分は、もう没後二十年を経過しているせ
いか、対談する二人に作品評価などの食い違

という。『海燕』六月号の埴谷雄高・秋山

Sは、まるでない。それよりは、一般の若者
から忘れられようとしている高橋和巳の面目
を、主として埴谷が生きいきと語っているし、
秋山は大学で文学を教えている経験から若者
たちの反応を語っている。

私はこの対談を読んだ後、今は四十代の全
共闘世代の二、三人に、高橋和巳が亡くなっ
て今年は二十年、文芸雑誌の一つが埴谷・秋
山による対談を載せていると話したが、積極
的に興味を示す人はいなかった。一様に、昔
は熱心に読んだという。高橋和巳に比べる
と、その前年に死んだ三島由紀夫の方が、は
るかに強いインパクトを今は持っている。

そのことは高橋和巳と同年に生まれている
私の場合も同じで、私は久しぶりに高橋和巳
の足取りを年譜や作品で少したどってみた。

そして、私の学生時代の昭和二十五年に全
学連の指導的な立場にいた東大生たちを共産
党が追放した後、全学連を共産党の指導下に
再建しようとして、確か昭和二十七年になっ
て京大から委員長が引っぱって来られたこと
を思い出した。あの頃は共産党は半ば非合法
だったから、全学連書記局というところに一
月はどは い たはずの私も、一緒の会議などに
加わったこともなく、全学連の組織がどうな
っているのか見当もつかなかった。ただ、全学

蓮の盟費を上納してほしいと都内の大学を てしまったこの戦後の、つまり、なんだな、
一、二校はど通ったが、それを命じた友だち 混迷と荒廃と虚無のただなかから、その土壌
だけは分るという秘密組綾だった。

本然の魂に惣えかける新しい文
それでも、「学生たちが何人か死ぬような学が、今や避弾として湧き起ってきたという
闘争でなくては駄目だ」というような委員長 わけだ」と演説口調で喋ったなどという部分
の言葉を覚えているし、この人自身闘争の中 を読むと、自分がどれほど遅れて、戦後の文
で死ぬ気なのかと思った。私自身は五月一日 学と無縁だったかを思い知らされる。
のメーデー事件で

『新潮』で、野原一夫「人間 坂口安吾」を

左翼に批判的であったということも初めて教 えられた。

戦争中に平野謙から、青年期に左翼運動か
ら思想の動揺を受けなかったかと訊かれ、い
ともアッサリと、受けなかったと答えて、平
野謙を苦笑させたという。太宰治、檀一雄、
坂口安吾の三人のなかで、安吾唯一人正面か
ら共産主義は嫌いだと宣言していることにな
るのか。

ここでまた埴谷・秋山対談に戻ると、埴谷
が自分の思想の基本をマルクス主義というよ
りアナーキズムだと言い、高橋和巳もそうだ
ったと言っていたのが思い出される。アナー
キズムだったから、高橋は文革に対して肯定
的な感じのまま帰国してきたと埴谷は説明し
ている。

滞納税金をめぐって国税局と争い、競輪の
不正を見つけたとして自転車振興会と争う安
吾の、相当に滑稽な、しかし徹底した意気込
みを野原の生彩ある文章で読まされて、安吾
は共産党は嫌いでも、アナーキストに近いの
ではないかと思ったりしたが、私のアナーキ
ズム観そのものが幼稚だから、こんな区分が
許されるかどうかは知らない。

みんな待ってろ。友達は夢を見てるバカなや 期の皇民化政策の時期を除いて、全体を通し っだと笑うけど、自分の道を進むだけ」 て見れば台湾文化の保護にあたっていたこと

台湾は今、大きな転換期にある。五月一日 と比べて、同じ民族による抑圧の方が厳しか
に、台湾は四十年以上続いた中国との交戦状 ったというのは皮肉な対照だ。
態を終結させた。これまで反乱団体とみなし ことの発端は、一九四七年に発生した、国
てきた中国を事実上承認し、ようやく中国に 民軍と台湾人との衝突、二二八事件だ。以
二つの政権が実在することを認めた。その政 後、台湾人は、国民政府とそれにともなって
治的な意義はともかくとして、台湾の人々の 大陸からやって来た外省人の、圧政と腐敗を
生活への影響も大きかった。それを象徴する 恨んだ。国民政府は、台湾人が団結して政府
のが言語状況の変化だ。

に反抗することを怖れ、大陸を失った四九年
台湾はバイリンガルの世界である。北京 以降は、共産党の脅威を怖れた。台湾は大陸
語、これは日本の敗戦後、国民政府が持ち込 反攻の基地だから、大陸を奪い返すまで台湾
んだ公用語だ。台湾語、これは古くから台湾 人はしばらく我慢しなさいということで、台
に住む福建系大陸移民の子孫たち、つまり台 湾の自主権は奪われた。
湾のマジョリティーの言葉だ。大部分の台湾 自我意識をなくすために、まず言語と文化
人が、この二つの主要言語を話すが、そもそ が抹殺された。そうしたことで、台湾語を話
もまったく通じ合わない言葉なのだ。さらに す者は、教育がなく下品だという目で見ら
忘れてならないのは、五十年足らず前まで、 れ、とくに若い女性たちは台湾人の子供であ
台湾の公用語は日本語だったということだ。 っても台湾語を嫌うようになる。その女性た

日本が去ったあと、台湾にやってきた国民ちの子供は、台湾語がまったくわからない と
政府は、大陸から北京語を持ち込み、それを いうことになる。放送禁止になるため、台湾
強制するために台湾語を禁じた。まず、学校語歌曲の創作意欲は衰え、その代りとして日
で台湾語の使用を禁じ、マスコミから台湾語本の流行歌が台湾語に翻訳されて歌われ、こ
を締め出し、多くの台湾語の歌を放送禁止に
した。そのため、台湾語を根とする台湾独自

れが台湾語歌曲の主流となってしまった。日 の文化は瞬く間に食

本植民地教育の経験:

た。台湾が台湾として生きていくための生命
力が生れたのだ。こだわりを捨てれば、大陸
とも自然体で付き合えるはずだ。

これは実質的な台湾の独立宣言ではない
か、ふとそう思って、台湾人の友人に聞いて
みた。
「そんなことはできない。独立したら大陸が
黙っていないはずだ」「台湾人・外省人にか
ぎらず、台湾が独立できるものなら独立した
いと思っている人がほとんどのはず だ」「思
慮のない人達は何も考えずに、政府の言うこ
とを信じている」「政府は台湾独立を禁止し
ている」さまざまな答えが返ってきた。台湾
人は将来をどう歩むのか、まだはっきりと意
識していない。むしろ台湾の人々は、今のま
まであり続けてほしいと願っている。混沌を
逆手に活用して結論を先送りにし、今の生活
が守られればそれでいいと、言葉にこそ出さ
ないがひそかに祈っている。

台湾語と北京語と日本語と英語が話せる李
登輝総統は、国家の方針として中国統一を前
提としながらこう語った。「私たちにとって
大切なのは待つことです。そして耐えること
です。好意的な回答が得られるまで」

たしかに台湾にしてみれば、急いで答えは 出さない方がいいのかもしれない。 (了)

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