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学にふれた部分を抜き出してみるとー

ー一方やがて、ベスト・セラーの中間小説といふもの
が現れて見ると、そこには我々の現実生活に出て来る、
意のにならぬもどかしさや不合理なものがすべて心理
的に整理されて表現されてみる。それは解決ではないけ
れど、一応存在の仕方を説明したものである。この解説
で以て、お望みなら一応理解の代用とすることが出来
る。その意味で、中間小説は「現代インテリの哲学」な
のである。現代の読者は、このサービスの SS哲学に甘
やかされ、自分の生んだ混乱をその混乱で命名して認識
したやうなトートロジーの世界に安住してゐるのだ。

文学の時評家としての河上さんの溜息がきこえるようで

ある。

しかし、それに続く部分には、単なる文学風俗批判とは
いえない問題が語られている。『火野葦平君への公開状』
のように美しい文章とはいえないが、河上さんの実感は明
らかなので、少し長くなるが引用する。

ー私は一昨年イギリスを旅行してみて、一種の名状し 難い経験をした。それは日本を発つて一と月目位に、た またま初めて日本の新聞社の支局を訪れ、その間の日本 の新聞を久し振りに見せられた時である。――中略

この部分には、以前に読んだ私自身が赤鉛筆で線を引い たあとがある。余程気になって――同感してーいたのだ ろう。私は昭和二十六年に渡欧して長期滞在したので、 『私の詩と真実』の書かれた昭和二十八年にも『孤独な芸 術幻想』の三十年にも日本にはいなかった。それでいて、 手元にある本には、どちらも河上さんの自筆による私の名 前と著者の署名がある。 河上さんのロンドン旅行の時にも私はパリにいて、そこ でお会いした。はじめての海外旅行なのに河上さんは冷静 な様子だった。そのことについては、しかし後で改めてみ れることにしたい。

いま引用した文章のなかで、「中略」としてあえて省略 した部分では、河上さんは「イギリスの社会といふ情誼と 道理でガッチリ築かれた現実」にふれている。日本の新聞 の「観念的な」記事に象徴されるものとの対比がそれをか かせることになったのだが、これはいいかえれば、河上さ んは本当の自由をイギリスの社会の側に見ていたというこ とである。 『人間ののない政治』は、指揮者のフルトヴェングラーの 『音と言葉』を読んだ感想から始まっているが、ベート ヴェンの第五交響曲の主題を論じてゲーテの「彫琢された 形姿」に行きつくフルトヴェングラーの思索のなかに、や はり自由の生れる場所を見ていることもまちがいない。こ

は、生きて動いてゆく思想 思索 の本質をさまた げてはならないという河上さんの潔癖さを示していたの だろう。しかし、批評が自分の経験に対する責任のとり 方であるということも同様に明らかだから、「批評家とし て生れた」河上さんの批評は、はじめから自伝の要素を誰 の場合よりも強くもってたのである。『私の詩と真 実』 は河上さんの批評にあらわれた突然変異というようなもの ではなく、むしろ、当然行きつくべき世界、河上さんにふ さわしい批評の形式としてうけとられたはずである。事 実、それは河上さんの代表的な作品となり、河上さんの最 初の文学賞受賞作品となった。 「自伝的」批評は、それ自体がひとつの歴史への関心にち がいないが、河上さんの批評のなかで、その歴史がより広 いところに拡がってゆくのは自然なことだろう。河上さん の「水平の視線」には、自分をとりまく世界がうつるのは 必然だが、そうしてうつった世界が、すべて批評家の眼に 見えているのでないのも当然である。批評家はむしろ、自 分の心でそれを見るのである。

江藤淳は、小林秀雄が戦中戦後の時期を通してー 「歴史といふものを眺め」る存在から「歴史を生き」る存 在になって行く姿を書いている。批評はそこで「観照」か ら「行動」になり、「形而上学ではなく、倫理に属」する ものになる。 河上さんは、「歴史を眺める」ことをやめなかった。し

書」の表情ははるかに静かで明るいものである。『吉田松
陰』でさえそうである。そこには、もちろん「愛惜」はあ
ふれるように流れているが、河上さんは「過去というもの
は無い」という台詞ははかない。はくことはできない。小
林とはちがって、河上さん―少なくとも晩年のーに
は、自分を支える過去が、また自分の文学を支えるもので
あることがわかっていたからである。そこに現れる歴史
は、いつでも静かで明るい「春色」に色どられている。

私が河上さんと、おつき合いをするよう に なった の は
―最初にも書いたように実際は長期のヨーロッパ留
学から戻ったあとである。河上さんは五十歳代の半ばに近
づき、まわりにいる我々もそれぞれに年齢を加えていた。
「戦中戦後」の時期ははるかに遠ざかり、河上さんの文章
からも「いら立ち」の表情は消えている。

しかし、河上さんが「戦後」を終ってしまったものとし
て受けとめていなかったのは確かである。戦後は、河上さ
んにとって、常に理解し難い部分を含んでた。河上さん
はそのなかで『有愁日記」を書き、『愁ひ顔のさむら ひた
ち』を書いたが、それが決して「憂い顔」でなかったこと
は、私達の幸福であり救いだった。

(つづく)

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