響 庭 孝男 は、「フランス語を話し、いかなる国家にも属さず、むし る。 とある建物の三階はバロック風の屋根をいただいている が、その下に繊細な鉄の飾り文様のついた4台があり、閉 された窓の上部には、黒ずんだ青の色彩によるキリストら しい人物の壁画が描かれている。それと同じように、ブラ ハの町角や壁には、ところどころ外につき出た街灯となら んで、聖母マリアの絵や、楽器、古いギルドの紋章らし いものがあり、スラヴの民俗的感覚と、あとから来たオー ストリア、ドイツのバロック的装飾のまじり合った感があ った。通りの向うには、城門と聖ミクラーシュ教会の青味 がかった円蓋どしに、入り組み、迷路のようにつみ重な り、まるで城に集約されるようにせり上ってゆく古いくす の中庭に聖マリア教会 (九世紀)を建て、ついで息子のヴラ したがって人口比にすればドイツ系住民よりも圧倒的に 一方、ドイツ系にも、中世以来、ズデーテンから東方進 の割合は一五・五パーセントから七・五パーセントに渡っ ブラハは、このように長S歴史を通じて諸民族のアマル カフカの心安らかな場所は地上のどこにもなかった。彼 アイデンティティ ア的、ユダヤ的なプラハの秘密」があると語っている。カ フカの寓意にひそむ「孤独」と共同社会の、辛い、目に見 えない隠された敵意と侮蔑との闘いが、霊的な意味での天 上への希求をふさぎ、「法」をおそれ、終末論的な精神を つくり出していたのである。それはそのままに、との天才 の青春であり、同時に、プラハが如実に物語る、錯綜しっ つ、異民族同士の矛盾が極端にその内圧を昂めた時代の一 つの証言であったと考えることができよう。 私はユダヤ人を徹底して疎外したという、ドイツ・オー ストリア貴族たちの住んだ美しいクラインザイ テの町並 (それでもカフカは一度だけ住んでいる)を左に見上げながら、 重々しい橋塔の門を潜り、城下町であるマラー・ストラナ 地区へと入って行った。 ウィーンから汽車でブラハに着いた時、私は郊外に近い 宿に行くタクシーのなかから、もう、ドルやマルクをレー トの二倍で欲しいという求めにあった。中年の運転手はド イツ語で、クラーベン通りでは若者たちに英語で言われ た。夕方、ヴェンツェル広場で食事を済ませたあと、私は 旧市街のなかへまよい込んで行った。かつて一九六八年の 「プラハの春」の頃、ソヴィエトを中心とするワルシャワ 条約軍がブラハに進駐した当時、私は「五月革命」後の、 余盛消えやらぬパリでそのニュースをきき、情景をテレビ わらず食料品店だけではなく行列がここかしこにできてい た。リッター小路を抜け、アイゼン小路から大円形広場 (旧市街広場)に出る。いたるところ歩道の上に板と木組の 仮の通路ができている。それは工事のためというよりは、 古い建物から剥落してくる壁片を防ぐためであったよう だ。「石畳み通り」を斜に抜け、昔のゲットーに入る頃か ら夜となり、時折りさす月の光をのぞいて極端に明りが少 く、影の多い建物の古い構えの間の、まるで迷路のような 小路を歩くと、全てが夢のように思われてくるのであっ た。 もとより、中世以来、ユダヤ人が住んでいた古いゲット 1はとうの昔に壊されている。しかしそれ以前はボジヴォ イ王が定めた今の場所に、壁で囲まれ、文字どおり「ゲッ トー」(イタリアのヴェネツィアにある島の名前であり、孤独と 隔離を意味する)として六つの門をもつ独自な世界ができ、 ヴラスタ・チハーコヴァー(『プラハ幻景』)にしたがえば、 ユダヤ人の祭儀の時には昼も夜もこの門が閉さ れ、「完全 な隔離状態」であったという。一八九五年から市議会がこ のゲットーを取壊しはじめ、やがて他の旧市街と同じ「分 離派」風の建物にかわった。もっとも、W・M・ジョンス トンによれば、その時点ですでに住民の五分の四以上が非 ユダヤ人であったという。彼らの商売が多くダンスホール や安酒場、売春宿となっていたこともうなずける点であ フション る。 |