の軌道が楕円であることを証明したのである。ところでラ ビ・レウはユダヤ人・ゲットーのなかのみならず、広く錬 金術師として各地に知られていた。その超能力は、冬の真 中に宮中の庭を花盛りにし、また、ルドルフ二世の願いを 容れてユダヤ人の族長たちの霊を魔法で呼び、家を訪れた 皇帝の前で自宅を豪奢な館にかえたと、ヨハネス・ウルフ ィディールは「ゴーレム神秘」のなかでのべている。 このルドルフ二世とラビ・レウの交渉によって奇妙に も、ゲットーのユダヤ人と城がむすびついたのである。そ こからユダヤ人にたいする迫害を禁止する「血の中傷」の 命令が出たことはさておき、プラハという一つの都市のな かの殆んど隔絶していたかに見えた二つの地区が結ばれた のであった。しかも錬金術という、いかにも神秘的な物質 の変革と創造の技によって。今もブラハ城のすぐかたわ ら、手の一角に「黄金の小路」という、まるで童画のよ うに不思議な家並があるが、それはルドルフ二世の召しか かえた錬金術師たちのアトリエであり住いであった。黄、 紫、青、渡褐色等の、木組のある、窓の変形した、石畳の その小さな通りは、むろん、復元し、改修を加えられたも のであるが、それでも、大きな聖堂や国立美術館、大統領 官邸、ルドルフ二世絵画館等のたち並ぶ、もっとも壮麗な 一角を占める点で、ルドルフ二世の錬金術への偏愛をぬき にしては何のリアリティも与えないものである。 いかにも場違いで、しかもスラヴ的な民俗性を感じさ 上か舌の根元へ置けば」、「ゴーレム」のみならず、人間の しかし時が経ち、ラビ・レウは再び「ゴーレム」を土偶 そうすれば『死』を意味する 《Mauth》という言葉だけ ・ で愛らしい少女が「私」を見つめる。「私」は彼女の手引 この暗く美しい小説は息づく過去の「夢」の物語である 旧市街のユダヤ人街を出て私はモルダウ河の岸に立っ ところで生涯の大部分、ブラハを離れなかったフランツ ・カフカとは違って、同じドイツ系ブラハの文学の担い手 すべて所有したい」とのべていることからも推察できよ う。むろん、この作品が鋭い現実批判であったというわけ ではない。それはリルケの裡に、ドイツ人でありながら、 その故のない優越感を嫌悪し、懐かしいボヘミアへの愛を とおし、チェコ民族運動を理解しながら共存を望む人間の 希求と、その「内面」尊重の志向が、統一のないままにあ らわした作品である。 「ねえ君、なんのために憎むんだ? 憎むってことは、と てもみじめな思いにするよ。ドイツ人にはなんでも勝手に させておくがいい。だって、彼らはぼくらの国を理解して いないのだもの。理解していないのだから、彼らは絶対に ぼくらの国を奪いとることもできないさ」 登場人物の一人のチェコ人に仮託されたこの言葉のなか に読みとることができるのは、ドイツへの反感と、共有す るボヘミアへの愛である。奪いとられるのは国境と政治で はあっても風土ではない。『二つのブラハ物語』のうちの 一つ「ボーフシュ王」は、言うまでもなく反オーストリア 運動の秘密結社をつくった人物が裏切りをした結果、犠牲 者を出し、自らも暗殺されたという、一八九三年の現実の 事件を下敷にしたものである。しかし作品の重心が、偏狭 なドイツ上流階級のナショナリズムへのイロニーと郷土愛 を表裏のものとしていながら、主人公の「内面」描写に傾 斜していることは否めない。また短篇『兄妹』がドイツの 青年とチェコの少女の愛の仄めかしにおわるのも現実批判 ろ郷土主義から状況をとらえようとしていた 「愚かにも私があのようなつまらぬ仕事に賭けようとして もとより『二つのブラハ物語』が、その「貧弱な」作品 その「内面」世界が、「浄福」となったか否かは別とし ウムシュフーク |