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島そういうことですか。

それにしても、「電気工」という職業を選んだのはなぜ でしょう。普通は、専業作家のコンプレックスの裏返しの 表れで、身をもってこんなにボロボロになるまでやってい るんだぞ、という形で職業を持つことが多いけれども、佐 伯さんはそれとは違うでしょう。 佐伯電気工を選んだというよりはむしろ、週刊誌記者を やっていたことが大きいですね。ぼくは十八から二十二ま で週刊誌記者やっていて、ちょうど大学時代に重なるわけ だけれども、やっぱり自分の書いたものが活字になり、そ こで満足していると小説を書けませんからね。結構書かせ てもらいましたしね、器用だったから(笑)。小説を書くん だったら違う方向に、という形でフットワークは動いたん ですよ。 島 器用だった、というのは意外ですね。 佐伯,それに、芸能ネタや風俗ネタについて書いているう ちに、嫌気がさしてきたということもあったし、あとは偶 然ですね。まあ昔から電気が好きでしたから、わりと入り やすかったとか、その程度の選択ですよ。 島こうして聞いていると、あるいは今みたいな小説を、や 1めた、といって放り出してしまうことがあるかもしれま せんね。芸能ネタと「私」ネタが、等価になる日が来るか もしれない。もちろん、今はそう思っていないでしょうが。 佐伯ただ、「ア・ルース・ボーイ」については、ずっと 読んできた限られた読者の中では、今島さんが言った、や

後にいるわけですから、もっと実験的にいけるんじゃない かという面もあるのだけれども、その気はないんだな、今 のところは。 佐伯そうですね。それよりはむしろ、書き手の動き具合 の生理的なものを信じていますね。まだそこまでしか掴め ない、ということもありますが。『一輪』にしても、まあ ああいう小説を書いたせいで読者が増えたというところも あるんですが、基本的には前に書いた「端午」という小説 の中に登場せた人物のことをもう一度書きたかったんで すよ。ところが、それが全然思っていたのとは違う「恋愛 小説」になってしまいましたから。それこそ、三島的な書 き方ではないですよね。 島だけれども、「私」がずれるんだったら、三島のおそ るべき可能性を受け継いでいることになるんじゃないです か。『仮面の告白』の「私」は、ある意味で自分のことな ど何もかも分かっていながら、同時に一番肝心なことは分 からないということが分かっていて、しかもいろんなもの から逃げまくるわけですよ。あれはもう、浅田彰氏の『逃 走論』など問題にならないほどラディカルに逃走してい る。ぼくには、あのままいってもらいたかったという気持 があるんです。ただ、三島の問題は歳をとることと密接に 関わっているはずで、四十、五十にならなければ分からな いのかもしれません。 佐伯 『仮面の告白』は、作者自身は死んでも私小説じゃ ないと言っている小説でしょう。

すね。 島欧米の文章には主語がなければいけない、と言われて いるけれども、向こうの人も日記を書く時は「私」と書か ないですよ。必要ないから。どんなに事実と密着していよ うと、やっぱりフィクションなんですよ。 佐伯 「私」が「私」という人称で書くというのが一番語 り手と密着していて、「ぼく」とか「おれ」は少し作って いる感じがあるようですが、結局「私は私だ」ということ が最大のフィクションですからね。その兼ね合いが私小説 の面白味なんですよ。

世界が他人の顔に見える時

島さて、ここで「ア・ルース・ボーイ」のたくらみにつ いて伺いましょうか。 佐伯まず、あの小説は書きはじめてからもう十二、三年 は経っているんですけれども、今回書こうという段階にな って初めて「ぼく」という人称を使ったんですよ。今まで 「ぼく」という人称を使ったことは一回もなくて、私小説 なら「私」だ、という感じで書いていた面があるんです が、十三年間かかってやっと十七、八の少年を書くには 「ぼく」じゃないと駄目だということが分かったんです。 今までのぼくのやり方だと、絶対「雛の棲家」の時と同じ 「彼」という人称になっていたんです。 島ルーズじゃなくてルース、という表記の選び方も、や っているな、という感じはしますけどね。

佐伯そこでおふくろに守られなかったのが、一番大きか ったんですよ。これは小川国夫さんの感じとも繋がるんだ けれども、おれはこの両親の子じゃない、という妄想が表れ るわけです。そこで、中上さんは血族の関係の方へ行った んだけれども、ぼくは血族の関係なんかどうでもいいんだ という方に向かっているわけです。だから、他人の子を育 てられれば自分のトラウマは消えるでしょう。もちろん血 の問題が決してなくなるわけではないんですが。 島 「おふくろは他人の顔をしていた」でしょう。また、 父親は最初から他人の顔をしているという役ですよね。 佐伯 だから、長く結婚生活をしていて、それでも構わな Sということがやっと分かったから書けたんですよ。とに かく、あれがトラウマだと自分でも分かっていて、本当に サーッと他人の顔に見えたんですよ。だから、そうとは書 いていないけれども、学校で教室の皆が石仏のように見え たシーンとも、同じなんですよ。世界が他人の顔に見える というか。 島つまり、オイディプスの逆なんだ。それがヴァニシン グ・ポイントだったんでしょう。佐伯さんの場合、フロイ ト風だろうが、折口風だろうが、物語を創る材料は一杯持 っているのに、やらないんだね。

「盤外配線」を目指して

佐伯今の生活環境を少し言えば、工場では自由に時間を 使わせてもらっているから、朝の四時半頃新聞配達をやっ ているのと同じような気持で工場に行って働いて....。

したトポロジカルな空間が破けて「社会化」されるような ものですからね。これまで書いてきた「ショート・サーキ ット」みたいな作品は、「一本張り」配線と同じ比喩で語 れると思うんですよ。これから、構成力のともなった小説 の上での「盤外配線」をやってゆかなければならないと思 っているんですよ。 島 「盤外」は「余白」ですからね。批評家がよく、テク ストの縦糸横糸というでしょう。あれは比喩ではないんで す。佐伯さんの場合は、そのネットワークまで見ているん ですね。 佐伯自分の意識的な動き方としては、決して比喩ではな く、そのネットワークを感じたいということがあります。 島 最後に電気の専門家に伺いますが、小説の「配線」の 中に流れているものは何でしょうか? やはり血ですか。 佐伯うーん、何だろうな。今までそうはしなかったけれ ども......。 島以前、朝の五時頃二人で電車に乗っていて三浦哲郎さ んの話題が出て、かつて三浦さんが自分の血族の小説を書 いた際、平野謙が、こんな馬鹿なことはない、と批判した なんてことがあった、とぼくは言いました。佐伯さんは、 たとえば三浦さんのような系譜を継ぐ作家でしょう。ぼく は、ひょっとしたらあなたは本当の「ポスト・構造主義」 作家かもしれないと思っているんです。 佐伯それは過変ですね(笑)。ただ、今後自分自身がどこ へ動いてゆくか、自分でも楽しみです。

(一九九一・五・二〇)

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