ていたらしい。身の危険を知ったタウトは、とっさに「日 本インターナショナル建築会」という組織から招聘状が来 ていたのを思い出し、とりあえず日本に行って身の振り方 を考えることにした。 こうして僅かな身の廻り品だけを携えた二人は、別れを 告げようにもそのゆとりはなく、人々との間は遮二無二隔 てられてしまった。それは別離ではなくて、一切の放棄、 放擲だった。それに反していま、日本を去ろうとすれば、 際限ない別離の波をくぐり抜けてゆくととになるだろう。 だがそうした苦行の中に組みこまれてはじめて、心に沁み てくる別れの情誼というものもありうるとすれば、別れと はいったい何なのか。 「ブルーノ、水原さんにはもうこのことはそれとなく伝え てあるのでしょう」 「二十日ぐらい前、夕方のいつもの散歩のとき、彼には告 げておいた、事によるとイスタンブールに行くようになる かもしれない、とね」 「彼は何か言ったでしょう」 「『私はお別れすることを恐れません。どんな事があって も、私は貴方とお別れすることがないからです』と言って いた。それから、こうもね。『貴方がトルコへ行かれるの は、日本にとって大変残念なことです。しかし私は、貴方 が他所でもっと大きな任務を果されることを望んでいま す。日本はこれからますますひどくなると思います』 みはら せてね」 一九三三年三月一日、ブルーノ・タウトは、法律上の妻 九月三十日、上京の途中、ちょっとだけ挨拶に立ち寄っ る中庭に面したあの六畳の間である(これがお寺での最 後の食事だ)、私はここで深い憂鬱にひたりながら、 樹々の青葉を眺めたものであった。 は広瀬住職による地元民との別れの集い。七日は高崎市八 島町の料亭今惣で、君島知事主催の盛大な別宴。群馬県立 工芸所の所員たち、タウトの支持者で地元の芸術バトロン 井上房一郎、最初の 出発の時がきた、誰もが微笑のうしろに別離の悲しみ を隠している。広瀬夫人はすすり泣いていた、わけても エリカを母のように慕っている敏子さんの悲しみは、見 る眼もいたいたしい。お寺の長い石段を降りてもすぐ自 動車に乗らない で、碓氷川の橋を渡りながら浅間山に最 後の一督を与えた、いつもながらの噴煙である。向う岸 の橋の袂には、全村の人々が集まっていた、子供達は手 に手に日本とトルコの旗をもっている、なかには鳥のよ うな驚を描いたドイツの旗もいくつかまじっていた...... このあと上野伊三郎の発声による「タウトさん万歳」の 声に送られて少林山を離れたことや、高崎駅での―今度 は県庁関係者を中心とする―見送りの儀式などのいちS ちは言うまい。日記には「私の愛する土地の一片も、遥か 後ろに遠ざかってしまった」と、汽車の震動に身をゆだね た人の感覚で書き記されている。 十月十日、赤坂幸楽での盛大な送別会は見すごしにでき ない。前にも記した高崎の芸術パトロンで、銀座に工芸品 の店「ミラテス」をもっていた井上房一郎が肝煎となった ほかに、建築家吉田鉄郎と蔵田周忠、朝日記者斎藤寅郎が の滞在ののち、再び遠ざかっていった開放型の反転であっ たことが判明する。 言うまでもなく、こうした行動のかたちはハーンのそれ 立ち去る人タウトーこの映像が現れる。別離のくりか う。 ここで彼がすでにその年の一月、この国の滞在を了えた |