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去るに際して、私は日本芸術の全く新らしい面をここに 見ることができた、これをどう表現したらよいだろう か。恐らくこう言えるだろう、ここでは「芸術は、 私達が芸術と気付かぬところにある」と。庭は木叢、 草、石だけで構成され、ほかには何もない、池もなけれ ば、総じて芸術めいたものは一片もないのである、しか もその雰囲気は、自然以上なのだ、ーっつましやかで 透徹した自己観照とでも言おうか。

創設者八条宮智仁親王の次男良尚法親王を門跡として、 北野から現在の洛北に移されたものである。その鶴島に亀 島という二つの

これが最後の最後なのだという心のほてりが、前面の高 い木立に蔽われて、冷え冷えと静まっている庭園に向って 解き放たれていった。それを「透徹した自己観照」と呼ん でいるのは、タウトの胸中の叫び「われ発見せり」にすぎ なかっただろう。これは実のところ「小堀遠州」ではもは やないし、自然と融合した日本的美学でもすでにない。 「永遠なるもの」をここにこのように置いて、自分は「出 立するもの」となって立ち去る―そういう思いが読める のだ。別離はタウト自身をも日本をも構造化するに至っ た。それは「ダス・ブライベンデ」と「立ち去るもの」の あいだに持ちあがったドラマである。しかしむしろこう言 うべきか。それは「小堀遠州」の名のもとに「止まる」も う一人のタウトと、「立ち去るもの」たる現実のタウトの あいだのドラマであったのだ、と。

受殊院を訪れた翌日、ブルーノ・タウトとエリカはわず

が絶えて逃れようのない岩が息苦しく館もる柏木の路上 を、郵便配達夫ならぬ一人の少年が歩いている映像が、い きなりあらわれる。いま始ったばかりの映画の冒頭部がス クリーン上に揺れるのに眼をこらす観客になったつもり で、しばらく情景を追ってゆこう。

夕方の六時近く、まだ剛情に照りつける真夏の日の下
に、屋根も塀も植込もぎらぎらと黄ろく溶ろけて見える
家家の門口をのぞいては、略描の地図と引きくらべなが
ら、一人の少年が淀橋柏木の裏道を歩いてみた。襟の開
いたシャツに、古い、だぶだぶの、しかし品のよささう
なホームスパンの背広を著とんで、角の擦りはげた赤革
の鞄をさげ、肩をゆり上げて歩いてゆくところはおとな
びた風態であつたが、そのおとなの型にいそいで釣合は
うとあせってみる肉体の脂の中には未熟な果実のにほひ
が残り、骨格の定まらぬ手足のひよろ長さ、蒼みがかつ
た皮膚の艶、柔軟な呼吸の調子が十九歳を計算しての

た。

少年は名前を鼓金吾という。本所石原に住む椅子職人の 件である。親のあとをただ継ぐよりはと、彫刻家を志して いるが、父親にとっても彼自身にとってもパトロンである 一紳士から手紙を届けるようにと命じられ、その宛名人でで あるロシア人の女流画家リイヒナ夫人の家に向いつつある

た「クラウス博士」、これがブルーノ・タウトをモデルと した登場人物に他ならなかった。実在のタウトに対して、 作中人物クラウス。現実とフィクションの次元差によっ て、少年金吾が憧れのクラウスに初めて会った日と、タウ トの出立・別離の日との関係は、最終的にはつきとめよう がなくなってしまう。というより、この曖昧不確定性その ものは「日本におけるタウト」問題という意味でさらに問 いつづけてゆかなければならない。 『白描』は昭和十四年に「長篇文庫」という雑誌の三月号 から九月号にかけて連載された。それは日本を去ったタウ トが、トルコ滞在わずか二年にして客死した直後といって よい時期である。一九三八(昭和十三)年十二月二四日、 タウトは脳溢血のため五十八歳で死んだ。彼はトルコ大統 領アタチュルクから信任をうけ、日本での長い「休暇」を 取り戻そうとするかのように仕事に奔走した。夏休みもと らず日曜もなかった。この過労が予想外に早い死を招いた のにちがいない。それにしても石川淳は実に早い時点で、 タウトを小説に登場せたものである。加えて今にいたる まで『白描』のクラウス以外、ブルーノ・タウトが小説中 の人物となった実例を探し当てることはできないのだ。

昭和十四年といえば石川淳は四十歳、『普賢』で芥川賞 をうけてから二年しかたっていなかった。『白描』は彼の 最初の長篇小説だった。時代を展望してみると、たとえば 島崎藤村が『夜明け前』を完成、永井荷風が『煙東綺譚』

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