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人物タウトとタウトをめくる当時の各種言説、動向に対し て、ある種の懐疑ないし批判をさしむけていた、と読みと ることが可能である。タウトをめぐる論調は「虚」でしか ないのではないか。把握、表現できないクラウスの顔なる ものを通して、『白』の時代批判のひびきが聞きとれる ようだ。ここで手短かに先取りしておくと、それからさら に数年ののちに発表された坂口安吾の『日本文化私観』に 引き継がれてゆくような意味が、そこには内在していた。 『日本文化私観』という表題が、タウトの著書の邦訳題名 をそっくり「引用」していたことも、すでに周知のことで

ある。

しかし石川淳を、単純なタウト否定者と受け取ってはな らない。一面で桂離宮と伊勢神宮を日本の美的神髄とたた え、反面では各地を旅して日本の家屋と生活に眼を向けた タウトを、石川淳が拒もうとしていたと受け取ったので は、早とちりである。海外の人としてタウトが冒した已む をえない事実関係の誤認にいたずらに拘泥しない、しかし それと同時にタウトのすべてを鵜呑みにもしない、こうし て彼の日本認識には充分な刺戟と意義があったと認める、 当時の知識層のそんな標準的な姿勢は、石川淳ち分け持っ ていた筈である。『白猫』という作品がその証拠だ。一例 をあげれば、料亭幸楽で催され、「東京朝日」がくわしく 報じたタウト送別の宴がモデルになっているクラウス博士 送別会の場面である。クラウスはロオザ夫人を伴ってトル

は、タウトの方がより先行的に、虚、空白を含みもった実 存だったのであり、だからこそ日本にあれだけの痕跡を残 したといえるのではないか、という思いが誘い出されてく る。タウトの「空」、それは彼が別離、出立を本質的にか かえこんだ実存であったためではなかったのか。タウトの 空間的移動と移行は、二度三度とわれわれに解決を求めて いる。以上でもって、クラウス問題からタウト問題への変 換は完了した。

ドイツからソ連へ。ソ連からドイツへ。ふたたびドイッ から日本へ。日本からトルコヘーこの生涯は、もしそれ が業務を追っての転々という前提の中に包含してもよいよ うなものだったら、殊更奇とするには当らないが、タウト の場合はそうは見られない。現実的な条件や原因がからま ってはいたが、彼の場合の空間的移動には、業務や仕事と いうだけでは了解しきれない雰囲気が いつもまつわってい た。移動は彼の行動の軌跡を示してもいたが、それ以上に 明瞭に感じられるのは彼の感性、思索、方法、表現がつね に移動を欲していたということに他ならなかった。タウト にあっては、移動は精神的移行を意味していた。彼の精神 的次元、つまり彼の実存は、移行の結果としてのーまた それと共に移行の前提としてのーとか空白とかを内在 させていた。幾度でもタウトが別離の人となったのはこの

らには人間的な温かさがない。

との手紙はトルコに到着してまだ二週間しかたっていな
い時のものだ。当然そのための慌しさや生活様式の未確定
といった状況が支配していた筈だが、日本のタウトがトル
コのタウトへと一変せざるを得なかった模様は、わずかな
行間からもすでに見えてくる。長すぎた日本での「建築家
の休暇」を了えたあと、山のような仕事がやってきた。

タウトの個人的生活形態も次々と変っていった。日本で
の習慣、ないしドイツから日本まで引継がれきた仕来り
のいくつかは行われなくなった。顕著な一例が日記であ
る。いつごろからタウトが日記をつけていたのかは突きと
められない のだが、日本に到着するまでの旅を記録した紀
行文をみても、そのもとには日記か日記ふうの手帳メモが
存在していたと想像される。だがそれ以上に、日本滞在中
の彼は熱心な日記記録者だったと言ってよかった。「休暇」
の中に封じこめられた建築家は文筆家であるほかはなかっ
たともいえる。日記は彼にとって在日中の最も重要な仕事
に他ならなかったことは、それが八冊にきちんと製本され
た上、タウト自身の作成した索引まで残されていることか
らも推し量りうるのだ。日記は、世に知られたいくつかの
著書や論文、エッセイとともに、明らかに著作として意識
されていた。

第三には文部省建築局の主任だ。厄介さは一、二、三と
書いた順番の数が大きくなるにつれて高まる。つまり一
はとても容易で、三はとてもむつかしい、でも

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