。 なのだ。彫刻家、画家、詩人等々も同様な筈だが、彫刻、 建築家は劇場を設計するとき劇場主になり、演出家にな もっとも建築家の多くはそんなことを意識せずに済んで ウトの形相があらわになってきたことが感じられる。 近代の建築家の中でも、彼のようにその立脚地、居場所 が移行していった存在は少ない、こうタウトについて言い うるだろう。年少のころ家庭の経済環境にあまり恵まれな かったらしい彼は、建築実技の学校を出るとすぐに仕事に ついた。はじめベルリンのメーリンク建築事務所に就職、 ベルリン東北にあるコリーン村の芸術家サークルにも出入 した。(後に結婚した妻ヘードヴィヒはコリーンの下宿の 娘である。)しかしやがてシュトゥットガルトのテオドル ・フィッシャーの事務所に入ってフィッシャーから多くを 学んだが、フィッシャーがミュンヘン工業大学教授となっ たため、友人フランツ・ホフマンと共同の建築事務所をベ ルリンに開く。タウト - ホフマン事務所には、兄ブルーノ と同様に建築家になった弟マックス・タウトも後から加入 する。 こうした修業時代には特に奇異なところは見当らない が、その後の歩みは、大枠において不思議な移行によって 型取りされているとしか言いようがない。共同事務所をも って自立した三十歳代のタウトは、一口に言って表現主義 建築家だった。建築は依頼主によって仕事を託される関係 上、現実的に雑多な対応を求められるから、単純な割り切 りはできないが、大よそのところ最初のタウトの肩書は表 現主義者といって差支えはなかった。一九一三年の「鉄の モニュメント」、一九一四年の「ガラスの家」が表現主義 ルング」「オンケル・トム・ジードルング」「アイヒカム・ うことは言いえるだろう。それにしても、一貫性と移行変 モスクワは彼の社会主義時代の挫折した頂点として意味 岩波新書『日本美の再発見』に収録されている講演原稿 『日本建築の基礎』で、タウトは日本建築に特有な「虚」 だろう。タウトはそこを全く逆に見たのである。見たとい うより、あえてそう考えたのであったかもしれない。もし かすると彼は日本家屋そのものの中に、自分を見てしまっ たのかもしれないのだから。そこに「虚」があると信じた のは、彼の内部に「虚」が存在していたからではないの か、こう想像してゆけるのである。タウトは、日本の家屋 や建築思想を讃美するという外見をとりながら、建築が人 間に対して促しかけ、人間から誘い出すものの質をおのず からに語ってしまっていた。 かいひ 空白、空虚をタウトが日本人に教えたといっても、それ は彼がこの国を去り、友人知人から遠ざかっていっただけ で空白の使者たりえたということではない。タウトの行動 の軌跡は全く異っていた。はじめタウトは海彼の世界から との国に近づき、この国に上陸した。異邦人の第一条件は まず他郷からこの地に来ることである。日本に来たタウト は、諸所方々を巡って建築と生活を見て歩き、日本につい て思索し、多くの著作活動を行った。そうしたすべてのあ とで彼は別離の人となったこの全体を思い描くのでな ければ、タウトが日本について語り、日本の建築と人々の 一所不住、流浪、漂泊だけでもまだ重要な側面を欠いてい 鴨長明はこの世の無常に直面したとき激しい衝撃をう 以上は中世から近世にかけての代表的な隠者たちであ |