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なのだ。彫刻家、画家、詩人等々も同様な筈だが、彫刻、
絵画、詩等々にくらべて、形成物が桁外れに堅牢であるた
めのアイロニーを建築家のように身に引受けざるをえない
実存は他に思い当らないのである。

建築家は劇場を設計するとき劇場主になり、演出家にな
り、俳優になり、観客にならなければならない。それらど
の立場にも身を置いて最高の空間を思い浮べ、それらを綜
合する構想力の要請が彼にのしかかっている。しかし次に
彼はデパートを依頼され、個人住宅を依頼されるだろう。
発電所、ホテル、病院、ターミナル駅......。構想力として
の建築家はあらゆる形態と機能のハードに潜入し、すべて
を自らが変幻しつつ経験してゆくほかはないのだ。あらゆ
るものに移行し、潜入することが求められる冒険は実用的
要求でありながら美的誘惑でもあるが、第三には実存的な
不安でもある。建築家とは危機的な人間である。

もっとも建築家の多くはそんなことを意識せずに済んで
いる。実際上彼らは、建築事務所、建設会社などの組織的業
務形態をとっていて、その叱護のせいで不安を覚えること
はない。少数の建築家の不安と流動を生きる人物がいると
いうまでなのだ。この意味においてブルーノ・タウトは建
築を実存的に生きた人物以外の何者でもなかった。彼につ
ねにつきまとった移行やそれに基づく空白は、そのことの
悲劇的にあざやかな証跡として読みとらねばならない。
芸術思潮の変遷を思いうかべてみると、他のどのジャン

ウトの形相があらわになっきたことが感じられる。

近代の建築家の中でも、彼のようにその立脚地、居場所 が移行していった存在は少ない、こうタウトについて言い うるだろう。年少のころ家庭の経済環境にあまり恵まれな かったらしい彼は、建築実技の学校を出るとすぐに仕事に ついた。はじめベルリンのメーリンク建築事務所に就職、 ベルリン東北にあるコリーン村の芸術家サークルにも出入 した。(後に結婚した妻ヘードヴィヒはコリーンの下宿の 娘である。)しかしやがてシュトゥットガルトのテオドル ・フィッシャーの事務所に入ってフィッシャーから多くを 学んだが、フィッシャーがミュンヘン工業大学教授となっ たため、友人フランツ・ホフマンと共同の建築事務所をベ ルリンに開く。タウト - ホフマン事務所には、兄ブルーノ と同様に建築家になった弟マックス・タウトも後から加入 する。

こうした修業時代には特に奇異なところは見当らない が、その後の歩みは、大枠において不思議な移行によって 型取りされているとしか言いようがない。共同事務所をも って自立した三十歳代のタウトは、一口に言って表現主義 建築家だった。建築は依頼主によって仕事を託される関係 上、現実的に雑多な対応を求められるから、単純な割り切 りはできないが、大よそのところ最初のタウトの肩書は表 現主義者といって差支えはなかった。一九一三年の「鉄の モニュメント」、一九一四年の「ガラスの家」が表現主義

ルング」「オンケル・トム・ジードルング」「アイヒカム・
ジードルング」と、ベルリン及び周辺の集合住宅建設を主
導するのである。およそ一万二千戸の集合住宅を設計した
と伝えられている。この一方で、一九二二年マクデブルク
時代のことだが、建築の雑誌「曙光」を編集、建築論壇
でも強力な発言者の一人とみなされた。この時代の延長
が、ソ連からの招聘によるモスクワ市でのホテル等の設計
という活動で、もしソ連での仕事が順調だったら、彼は
「社会主義建築家」の大物と化していたかもしれなかった。
「表現主義」から「社会主義」へ。「社会主義」から「日
本美の再発見」へ。これは誰がみてもいささか振幅が大き
い、よく分らない移行

うことは言いえるだろう。それにしても、一貫性と移行変
転とがタウトの両面を形づくっていたことはすでに否めな
い。

モスクワは彼の社会主義時代の挫折した頂点として意味
づけられるが、そこを去って次に彼がやって来た場所、す
なわち日本が終着地なのでもなかった。日本を去って赴S
た先がトルコである。それらの歩みを展望したとき、彼の
ある一時期だけに光を当てて、これがタウトだというふう
に言い立てるのは、彼を固定された「実」でだけ把握した
にすぎない、と気づかされる。タウトを規定していたのは
「実」であったのと同時に「虚」でもあった。そこにタウ
トがいると手をのばせば、すでにそこは空白であり、彼は
立ち去ったあとでしかないーこの様態を正当に評価した
とき、はじめてタウトの実存が明らかになり、そのめざま
しい移行、空間移動の意味が明らかになるだろう。日本に
滞在していたときのタウトには、表現主義も社会主義もす
でに「空白」であった。存在していなかったという代り
に、それらは「空白」として存在していた、と言おう。
「空白」のカテゴリーとして、それらは充分に意味をもっ
ていたのだ。同じように、トルコに位置を占めたタウトに
は、日本はすでに「空白」であった筈であり、これを認め
ることがタウトの本質への道を開くのである。

岩波新書『日本美の再発見』に収録されている講演原稿 『日本建築の基礎』で、タウトは日本建築に特有な「虚」

だろう。タウトはそこを全く逆に見たのである。見たとい うより、あえてそう考えたのであったかもしれない。もし かすると彼は日本家屋そのものの中に、自分を見てしまっ たのかもしれないのだから。そこに「虚」があると信じた のは、彼の内部に「虚」が存在していたからではないの か、こう想像してゆけるのである。タウトは、日本の家屋 や建築思想を讃美するという外見をとりながら、建築が人 間に対して促しかけ、人間から誘い出すものの質をおのず からに語ってしまっていた。

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かいひ

空白、空虚をタウトが日本人に教えたといっても、それ は彼がこの国を去り、友人知人から遠ざかっていっただけ で空白の使者たりえたということではない。タウトの行動 の軌跡は全く異っていた。はじめタウトは海彼の世界から との国に近づき、この国に上陸した。異邦人の第一条件は まず他郷からこの地に来ることである。日本に来たタウト は、諸所方々を巡って建築と生活を見て歩き、日本につい て思索し、多くの著作活動を行った。そうしたすべてのあ とで彼は別離の人となったこの全体を思い描くのでな ければ、タウトが日本について語り、日本の建築と人々の

一所不住、流浪、漂泊だけでもまだ重要な側面を欠いてい
た。「隠」にとって必須、不可避なもう一つの拠点は「家」
であった。

鴨長明はこの世の無常に直面したとき激しい衝撃をう
け、都を去ってその東南、日野山に方丈の草庵を結んだ。
吉田兼好は比叡山の横川や修学院の里にも隠栖したが、晩
年にいたって仁和寺に近い双ヶ岡の庵に住んだ。このほか
西行法師は若くして出家して高野山、吉野、伊勢と各地に
遁世の歳月をおくる一方、旅人として各地に足跡を印し、
奥州にも生涯二度の大がかりな旅をしている。松尾芭蕉は
江戸市中からはずれた深川の芭蕉庵に隠れ住んだ。しかも
芭蕉庵に籠りきりになるのではなく、幾度となく風雲に身
をまかせて旅路の人となってもいる。

以上は中世から近世にかけての代表的な隠者たちであ
る。彼らを高峰として位置づけた形で長い隠者文学の系列
が歴史としてくりのべられきたが、何故隠者にとって
「家」なのかということは、隠者文学を底辺で支えたのが
「無常」思想であり、「過ぎ行き」「滅び」であったからだ
という所まで、還元を続けてゆかなければならない。とこ
ろで存在の本質は「無」であるというなら、「家」など不
要ということになるのだろうか。短絡的にはそう言いうる
かもしれないが、隠者の「無常」は決してそういうものと
はならなかった。
鴨長明の『方丈記』は、彼以前の先行者を承けたところ

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