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まれて然るべきであっただろう。限られた空間の中に無限
の多様性が展開するのが桂離宮である。無限定は桂離宮の
ものではないのだ。

タウトには「小さい」という側面は言う必要がなかっ
た。ここを小宇宙と観想するきっかけはやって来なかっ
た。代って「豊かさ」がさまざまに変形、変奏されてゆく。
この精緻な空間構成がタウトに想念の無限連鎖を生んだの
もその「豊かさ」であり、眼と精神の交換・対応もそれで
ある。さらに、タウトが桂離宮に「現代」を読んだのにし
ても、「豊かさ」の通時的な定着を意味している。

三時間の桂離宮滞在を了えて、タウト一行は夕刻、車で帰
路についた。今夜もまた彼は、パトロン下村正太郎の自邸
に泊るのだが、その前に都ホテルに立寄って、テラスでお
茶をのみ休息をとった。たった いま見てきた完成された
「小宇宙」は、そのつもりになればはてしなく感想やら試
嘆やら、言葉を引き出す筈のものだった。ではタウトは、
そこで何を人々に語ったのだろう。何を語ったにしても、
それは『日記』の中の直観と省察に帰着するものだったに
違いない。ここでパトロン下村正太郎や建築家上野伊三郎
がタウトと、次のような架空の対話を交わしたかもしれな
い場面を思いうかべてみてもよい。テラスの背景は暮れな
ずむ東山の若緑とその間に点々と漂う花々の彩どりだと決
めよう。どの発言が誰ということを抜きにして、架空の、
ありうべかりし声を聞いてみる。ただタウトは下村とは英

は、竹を編み撓めた独自な「桂垣」によって囲いこまれた
別世界であり、参観者のおそらく半ば以上が、意外に小さ
いと感ずるであろうような庭園空間をなしている。敷地面
積がおよそ七万平方メートルの広さであるのに、小さい印
象であるのは不思議な気もするが、そこに桂離宮の一つの
鍵がひそんでいよう

ょうか。『桂離宮』という『うわさ』として流布してきた というのが実状かもしれません」 「志賀直哉という著名な奈良在住の小説家が美術に造詣が 深くて、以前『座右宝』という大きな美術写真集を編纂し たことがありますよ。絵画、彫刻、建築・庭園の三部に分 れていて、桂離宮の写真は中でも一番沢山収載してある。 志賀直哉はリアリズムの作家で、装飾過剰の金ぴかを極度 に嫌っている人なので、桂は当然高く評価したわけでしょ う」 「でも日本人が桂の美学と哲学を新たに切り開いたという 例は見当らないのではありませんか」 「私の日本での仕事がこれからどうなるか分りませんが、 私は最初の出会いを重んずる人間なのです。その意味で私 にとって桂の占める位置は不変でしょう。ところで、この 離宮の作者は結局だれだったのですか」 「通説では小堀遠州という人物です。遠州は江戸時代初期 の大名でありながら、他方では茶道、華道、書など嗜みみ かい芸術家でもありました。普請奉行として多くの作庭や 建築工事にかかわったのです。ただこの人物については伝 説化された部分が多いため、本当にあの離宮の作事を辛領 したのか否か、論議が起っています」 「小堀遠州......大名にして芸術家。桂の多様性と中正の秘 義はそうした結合の中にあったのだろうか......この人物を もっと知る必要が出てきましたね」

半に及ぶこととなる日本滞在のクライマックスが最初の最
初に来てしまったという意味になるのだろうか。それから
以後の日本滞在の時間は、絶頂から限りなく連続する長S
下り坂をおりていったようなものだったのだろうか。「最
も善美な」といった言葉にとらわれすぎるとそんな感じが
するかもしれない。

たしかにクライマックスは最初に来てしまったという見
方も可能だ。だからといってそれ以後が、逓減や低落を意
味したのではなかった。それはタウトのもう一つ別の側面
が日増しに明瞭になり、その側面においてもう一つの日本
を彼が次々と見出してゆく歩みを意味していた。桂離宮に
「永遠」を読みとったタウトだったが、次の日からは日本
のいたるところにはびこっている堕落と醜悪にいやという
ほど対面しなければならなかった。『日記』は何憚ること
なく、嫌悪し、概嘆し、立腹し、冷眼を差し向けるタウト
の感情と判断を記したものとなっている。だがこれは、誰
もがすぐ思いつくような、讃美するタウトと嫌悪するタウ
トがいたということで終る問題ではありえない。タウトの
二面性、両面性というのは一応は当っているが、それを近
代知識人の通例たる分裂ないし表といった次元で受けと
めずに、それがどこから来たのかをさらに探る必要があ

る。

『日記』によれば、彼は一日も休みなく、西欧人の慣例に 反して日曜も休むことなしに日本各地を見てまわり、建築、

ほとんどは素晴らしい。だが、力を尽したのであろう料
亭の「新しい家屋」には、タウトの眼が苛立った。これは
おかしい、こんなのはあの離宮、今日の川下りとは違う質
だータウトはそう実感した。だがそれはまだこの時点で
は、「余り優雅だとは言えない」と抑制された表現にとど
まっていた。

このあと自動車を駆って赴いた松尾神社では神道の自然
哲学を感じとり、西芳寺(苔寺)では庭園の竹垣の直線
や、苔その他の形づくっている自然の芸術を味わった。夜
は夜で下村邸での建築家たちのタウト歓迎会に出た。

次の日(五月六日)、下村正太郎の東山の茶室に招かれた
あと、引続いて大阪にゆき、渦を巻くように活動する市街
を眼に収め、大阪毎日、大阪朝日両新聞社を訪れた。

朝日新聞社の新築家屋―施工はなかなか贅沢だ。屋
上にスケート場やテニスコートがある。日本料理部はい
かいのだ。その他の室は比較的よい。大阪の市街を眺め
ながらお茶を飲む、アメリカを想起させる......

大阪から「アメリカを想起」したというのは、かつて一 九二二年にシカゴ・トリビューン社の設計公募に応じて渡 米したことがあったからだが、問題はここではじめて「S かもの」の一語が姿を現したという一点に絞られる。それ

いう語で訳そうとしても、この日本語のもつ意味を剰す ところなく表現することはやはりむつかしい。フランス 語やロシヤ語でもまったく同様である。

「いかもの」は現在あまり用いられないが、それでも感じ はすぐに分る表現である。元の形はおそらく「いかさまな もの」であろう。しかしそれ以上にここでわれわれが記憶 すべきなのは、「いかもの」が用いられなくなったのに比 例して、ドイツ語「キッチュ」がひろく滲透してきたとい うことだ。それはまさにタウト的状況といえる。

タウトは「いかもの」と「キッチュ」の一致によって、 彼の自国語「キッチュ」を日本批判の強力な武器にするこ とが可能となった、と観察できるのである。しかしその強 力のよって来たるもう一つの源としては、「いかもの」(及 び類縁語「いんちき」)という表現が、日本人に思わず笑 いを誘い出す力をもっていたことが挙げられる。

日本でいかかかという言葉を口にすると人が笑う、し かしいんちきと言えば尚さら笑うのである。とにかく両 語ともいきいきとした内容をもって民衆のうちに通用し ているから、香しからぬ芸術や身の入っていない仕事に 関するくだくだしい論議をこれによって省くことができ るのである。

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