まれて然るべきであっただろう。限られた空間の中に無限 タウトには「小さい」という側面は言う必要がなかっ 三時間の桂離宮滞在を了えて、タウト一行は夕刻、車で帰 は、竹を編み撓めた独自な「桂垣」によって囲いこまれた ょうか。『桂離宮』という『うわさ』として流布してきた というのが実状かもしれません」 「志賀直哉という著名な奈良在住の小説家が美術に造詣が 深くて、以前『座右宝』という大きな美術写真集を編纂し たことがありますよ。絵画、彫刻、建築・庭園の三部に分 れていて、桂離宮の写真は中でも一番沢山収載してある。 志賀直哉はリアリズムの作家で、装飾過剰の金ぴかを極度 に嫌っている人なので、桂は当然高く評価したわけでしょ う」 「でも日本人が桂の美学と哲学を新たに切り開いたという 例は見当らないのではありませんか」 「私の日本での仕事がこれからどうなるか分りませんが、 私は最初の出会いを重んずる人間なのです。その意味で私 にとって桂の占める位置は不変でしょう。ところで、この 離宮の作者は結局だれだったのですか」 「通説では小堀遠州という人物です。遠州は江戸時代初期 の大名でありながら、他方では茶道、華道、書など嗜みみ かい芸術家でもありました。普請奉行として多くの作庭や 建築工事にかかわったのです。ただこの人物については伝 説化された部分が多いため、本当にあの離宮の作事を辛領 したのか否か、論議が起っています」 「小堀遠州......大名にして芸術家。桂の多様性と中正の秘 義はそうした結合の中にあったのだろうか......この人物を もっと知る必要が出てきましたね」 半に及ぶこととなる日本滞在のクライマックスが最初の最 たしかにクライマックスは最初に来てしまったという見 る。 『日記』によれば、彼は一日も休みなく、西欧人の慣例に 反して日曜も休むことなしに日本各地を見てまわり、建築、 ほとんどは素晴らしい。だが、力を尽したのであろう料 このあと自動車を駆って赴いた松尾神社では神道の自然 次の日(五月六日)、下村正太郎の東山の茶室に招かれた 朝日新聞社の新築家屋―施工はなかなか贅沢だ。屋 大阪から「アメリカを想起」したというのは、かつて一 九二二年にシカゴ・トリビューン社の設計公募に応じて渡 米したことがあったからだが、問題はここではじめて「S かもの」の一語が姿を現したという一点に絞られる。それ いう語で訳そうとしても、この日本語のもつ意味を剰す ところなく表現することはやはりむつかしい。フランス 語やロシヤ語でもまったく同様である。 「いかもの」は現在あまり用いられないが、それでも感じ はすぐに分る表現である。元の形はおそらく「いかさまな もの」であろう。しかしそれ以上にここでわれわれが記憶 すべきなのは、「いかもの」が用いられなくなったのに比 例して、ドイツ語「キッチュ」がひろく滲透してきたとい うことだ。それはまさにタウト的状況といえる。 タウトは「いかもの」と「キッチュ」の一致によって、 彼の自国語「キッチュ」を日本批判の強力な武器にするこ とが可能となった、と観察できるのである。しかしその強 力のよって来たるもう一つの源としては、「いかもの」(及 び類縁語「いんちき」)という表現が、日本人に思わず笑 いを誘い出す力をもっていたことが挙げられる。 日本でいかかかという言葉を口にすると人が笑う、し かしいんちきと言えば尚さら笑うのである。とにかく両 語ともいきいきとした内容をもって民衆のうちに通用し ているから、香しからぬ芸術や身の入っていない仕事に 関するくだくだしい論議をこれによって省くことができ るのである。 |