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奈良行きの翌日(九日)、今度は京都帝国大学工学部建 築学教室である。『日記』は次のようだ。

午後京都大学を訪れた、藤井教授が教室を案内して下 さる。廊下に学生の設計図がならべてあった、いずれも 世界的流行にかぶれたいかいのだ。モスコウと少しも変 らない。新人学生が作業している。石膏模型の蒐集があ る、西洋のもあったが日本家屋の構造模型にはいくつか すぐれたものがあった.....

次の日(十日)は大阪の大丸百貨店。タウトの有力な支 援者下村正太郎の経営する関西の有力デパートである。

下村氏の大丸大阪店の開店日、設備はいい、しかしこ れが建築なのだろうか。屋上庭園、食堂は半分が日本食 部で半分が洋食部である。陳列品の照明、キモノを着せ た人形、「質」の高さが見られる。地下が三階になって いる、建築家は階上の百貨店のと同じ人、いかいのだ。 劇場めいたゴシック風、だが明るい。お土産をもらう。

以上のように「大阪朝日」「奈良」「京大」「大阪大丸」 を通して気がつくことは、タウトが「よいもの」を見出し ながら同時に「キッチュ」を捉えていたということだ。

あり、首都東京だった。太平洋は車窓から見ることができ た。富士山は雲に隠れて見えなかった。ところで、東京 ーというよりも横浜あたりからすでに始っていた「首都 圏」の印象は、期待を裏切ってひどいものだった。

横浜の近くになると建築はだんだん無味乾燥なものに なる、夥しい電力線。やがて東京に近づく、ひどく貧弱 な建築だ、それでも線路の片側には多少すぐれた家屋が ないでもない。この辺の日本家屋は京都とはまるきりち がっている。床がもっと高いようだ。それから高層建築 のある中心地。これはたまらない! なるほど、To-kio は Kio-to の反対物だ。

これが今後幾度となく往復することとなる東海道線車窓 からの初印象だった。篠田英雄が「これはたまらない!」 と訳した個所の原文も「キッチュ」である。日本の首都は 「いかもの」家屋の行列でタウトを歓迎したのだ。しかし 別の視点も必要だ。これまで、誰からも何らかの名称や形 容を与えられることのなかった沿線の乱雑貧弱な小家屋や 工場、商店街、駅舎などが、いまタウトという外来建築家に よってはじめて「キッチュ」と命名され、特性記述を与え られたのである。日本語 「いかもの」とドイツ語「キッチ ュ」の出会いである。タウトは日本の内奥に深く突き進ん だ。そして東京駅から帝国ホテルへ。

に機能し得た「眼の思考」が、帝国ホテルでは停滞し、方 向性を喪失したからであっただろう、ということである。 現在ではかつての名建築として、犬山の明治村に表側の一 部だけが移された形で残っているあのホテルの内部は、い までは漠然と思い出して見ることができる程度だが、迷宮 状に方向感覚を戸惑わせる廊下の錯綜は、いかにも「桂」 を通過してきたばかりのタウトが受け容れられるものでは なかっただろう。そこに見出される構造的な「不経済」 は、低い天井の圧迫感や、大谷石の穴に積っている塵埃な どと共に、「桂」の端正・単純・無邪な美学とはいかなる 点でも結び合わない。結び合わない以上に背馳している。 それに加えて、『日記』は語っていないが、写真に撮され たときの効果を狙っているような建築は駄目である、とい う彼の信念もあったかもしれない。帝国ホテルの外観は、 ライトの多くの作品と共通したことだが、高度に写真向き であった。(建築作品は写真効果を重視してはならぬとい うタウトの訓えについては、弟子の水原徳言が『工芸の 美』という著書の中に記している。)

帝国ホテル批判は、タウトのライトへのライヴァル意識 からも発していたかもしれないし、初めて接する東京の悪 印象が撥ね返っての結果だったかもしれない。だがそこを 多少考慮に入れても、タウトのその規定はおそらくかつて なかった新しい帝国ホテルへの視点であっただろう。それで は客観的には一つの異説かとは思われても、タウトの「眼

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品・英国大使館は認めているのである。剝き出しの個人感 情だけで彼がものを言っていたのではなかった。

これだけ跡づけてくれば、『日記』が、桂離宮発見の記 であるのに引き続いて、日本における「キッチュ」発見と 指弾の記録でもあったことは明瞭である。桂離宮を仮に高 山の尖頂のような一点と思い描いてみれば、日本各地に蔓 延している「キッチュ」こそが日本の実質的な部分であ り、またそれにもかかわらず頂点を支える底部の役割も帯 びていたとしなければならないが、そこの所にかくもかか わっていったとは、タウトが日本の純粋結晶的な美だけで なく、夾雑物や歪曲や堕落を含んだ日本の生活の中に入っ ていったということだ、と理解しなければならない。

だがここでもう一度、タウトと「キッチュ」の関係を把 握し直すことが必要だ。「キッチュ」はものなのか言葉な のかということがあったからである。おそらくタウト以前 に、日本人は「キッチュ」という言葉および観念が、文化 論・芸術論の領域で生きて飛び交うのを見たり聞いたりし たことはなかった、と推測される。生きた言葉としての 「キッチュ」は、タウトがドイツから携えてもってきた言 葉だったのである。

ドイツ語「キッチュ」は古くからあった言葉ではない。 十九世紀後半、おおよそ一八七〇年ごろ南ドイッ、ミュン

語頭のSが取れて「キッチュ」という語形が生した、とい
う説だ。古い語原辞典はたいていこの由来を記載している
が、南ドイツ方言に動詞「キッチェン」があった以上、そ
れは初期の旧説、異説以上のものではあるまい。

しかし棄てられた旧説も含めてみたときに、「キッチュ」
の発生状況は明確に読み取りうるのである。「キッチュ」
が方言から昇格して辞書に載るようになったについては、
大衆的状況の発生ないし出現が深く関連していたのだ。概
念形成が行われたことによって、それまで曖昧にしか存在
しなかった状況や関連が明確となり、意味論的定点が探り
当てられるということがあるとすれば、大衆状況と「キッ
チュ」はまさにそうした関係の中から輪廓をあらわしたも
のに他ならなかった。十九世紀後半ー「世紀末状況」

に出現したという前史をもつこの「キッチュ」なるも
のは、すぐれて二十世紀的な観念かつ表現であった、と了
解できるのである。

タウトは「キッチュ」という観念および言葉を、外来の
まれびとの手土産として携えて日本の土を踏んだーこの
ようにふりかえって読むべきである。日本語 「いかもの」
と「キッチュ」がやがて出会い、重なり合うことになる。
もしその出会いがおこらず、「いかもの」が「いかもの」
のままであったら、「キッチュ」と融合してたちまち「キ
ッチュ」に取って替られなかったら、それは現代の諸芸術
や日常生活の中で無視しえなくなってきた新しい品質を捕 捕

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