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語学的次元では、タウト以前に日本人が「キッチュ」を
知らなかったとは必ずしも言えない。独和辞典を検索すれ
ば、その語が見出し語としてどのように登場してきたか
を、知りうる筈である。明治大正の古い辞書をさぐってみ
ると、明治時代のものでは、かつて広く用いられた登張信
一郎(竹風) 『新式独和大辞典』(大倉書店・明治四五年四月
刊)を見ても「キッチュ」は載っていない。登張は著名な
文人であると共に辞典に努力を傾注し、昭和八年六月には
あらたに『大独日辞典』を世に送ったが、菊判千七百余頁
という大きさと、特色ある語釈で知られるこの辞書にも
「キッチュ」はない。

一方、昭和二年七月に初版を出した片山正雄の『雙解独
和大辞典』(南江堂)には見出し語「キッチュ」が出てお
り、「こしらへもの、際物(真価なき俗受専門の美術品)」
となっている。辞典的な登録語彙という意味では、昭和に
入ったころ「キッチュ」は浮上して姿を現したと見てよい
だろう。その後、昭和十一年四月には山岸光宣 『コンサイ
ス独和辞典』(三省堂)と佐藤通次『独和言林』(白水社)が
発売されたが、どちらも見出し語「キッチュ」を載せ、前
者は「(芸術品等ノ)イカモノ」、後者は「怖らへ物、俗受
専門の際物」としている。この時点で「キッチュ」は独和
辞典でも定着したといえよう。

以上のように一しても、「キッチュ」を真に日本に持 ち込んだのは他ならぬブルーノ・タウトである、という命題

なり、俗説となってしまっている。「タウトは桂離宮をた たえる一方、日光をキッチュと呼んだ」という、巷間のキ ッチュ論者らの定型的了解の方がむしろ言説のキッチュで ある。それから脱却するためには、まずタウトを正確に読 まなければならないことは、全く自明と思われるのだが。

東京都心部の建築を視察した翌日、五月二十日に早くも 彼は朝日記者斎藤寅郎、建築家牧野正己と同行して日光に 赴いた。この日は車窓の農村風景を賞美し、金谷ホテルで 中食ののち中禅寺湖畔にバスでゆき、まだ水の流れ落ちて いない華厳滝を見てからモーターボートで湖上に遊んだ。

...右には男体山の偉容、左には樹木の茂った山々。 荒々しい牧歌調だ。この辺は鹿や熊の狩猟区である、狩 猟小屋が見える。「赤岩」の近くまでいく。湖岸の樹々 が絵のように美しい。

(ローイッシュー

タウトは日本の自然にはすぐ融けこむ人間だった。雄大 な遠望に接すればたちまち「英雄的だ!」と叫ぶようなド イツ人ふうの発想類型は、彼の場合自然に対してはあまり 発動しない。自然に対したときのタウトは構えたところを 示さず、自然である。この日はその後自動車を駆って龍頭 滝を見、じぐざぐ道を曲折して北上、白樺や小笹のあいだ を走って湯元温泉の湯滝まで行っている。 翌二一日が東照宮の日である。宿泊した南間ホテルを立

以上が「日光批判」なるもののすべてである。このあと
東京に引返して建築家蔵田周忠を訪問し、その日の日程は
終った。宿泊は「キッチュ」の帝国ホテルだった。

何がタウトに「キッチュ」と言わせたのかを読み分けて
みることができる。単なる華麗豪答をさして「キッチュ」
と叫んだのではなかったからである。三つないし四つのこ
とをタウトは、右の条りで語った。はじめに行った徳川家光
を祀る大猷院廟については、「装飾品のように『美しい』」
もので、「眩ゆいばかりのきらびやかさ」があると先ず述
べている。美しくきらびやか―現場をはなれた一般論で
いえば、これは一応は肯定である。しかしそれでいて「す
べてが威圧的で少しも親しみがない」のであり、大猷院廟
への批判的評価はこの一節に集約されている。

次に赴いた東照宮でも同様に肯定と否定は交錯してい
た。それは「華麗」だが「退屈」である。なぜ「退屈」な
のか。「眼はもう考えることができない」ほどにこの建築
の装飾は細部から一斉に声をあげて叫んでいる。だが、そ
れらを聴き分けることはできず、どこまでも意味のとれな
S喧騒が続くだけだ。おそらくそう感じたとき、タウトの
思考は停止し、「退屈」するしかなかったと考えられる。
さらに鳴龍の仕掛けにしても、「装われた」荘厳の底に、
地金である「珍奇な骨董品」の質が透けてまる見えであ
る。総じてこの極彩色の建造物は、中国建築の「模倣」に
すぎず、それも本物そっくりではなく、容積において「高

いのだ。神馬は蔵の
なかで頗る御機嫌斜めである、欄間の三猿(見ざる、聞
かざる、言わざる)。兵隊の列のような配置、なにもか
も型にはまっている。華麗だが退屈、眼はもう考えるこ
とができないからだ。鳴龍のある堂(本地堂)、手をた
たく

タウトの日光批判、東照宮否認は、その衝撃で観光客や 参詣人の減少を招いたというものではいささかもなかった だろう。古来「日光見ぬうちは結構と言うな」という俗な フレーズが行われて、日光は多くの人間を招き寄せてきた が、この趨勢に何らかの変化を生じたとは見られない。建 築家タウトは、建築物がそこに建てば、人々が出入りし利 用することは拒否も阻止もできないことを知っていた。し かし反面タウトが「キッチュ」と呼んだことで、直接的に 観光客や弥次馬が増加したとも言えまい。この意味で、建 築家および建築論は現実の進行に対してはどこか無力であ る。もしくは彼の存在が有効に機能する次元を異にしてい

る。

それは建築論の孤独ということだが、建築物そのものに も奇妙な孤立がまつわりつくのではなかろうか。ボスト・ モダンの声が甲高かったころ、方々で斬新で目を惹くポス ト・モダンのビルや住宅を見かけた。それらはさながら眼 を剥いたり、両手を拡げたり、パフォーマンスをしている 感じがした。ところがたいていはその両隣や前後に、不調 和な建物、全くこちらは関係はないと言いたげな何の特性 ももたない建物などが建っているのがひどく眼についた。

それは整然たる都市計画が一向に成立しない 日本的現実 でしかないのだろうか。だが東京よりはその点「進歩」し ていそうな海外の都市でも、ボスト・モダンとその周囲の たたずまいには似たような問題が発生しているのではない

あるが、これらの芸術のきわめて純度の高S傑出した表現
は、「完璧」であってそれがそのまま「自然」そのもので
もあるという印象を可能にするだろう。それは、人間の芸
術につきまとう逆説なのか、それとも錯覚なのかは見極め
きれないが、人間の内なる自然性は芸術表現のレベルに向
って再度浮上してくるということがあるようだ。

建築だけがおそらく「完璧」と「自然」を切断してしま
った芸術ジャンルとしてユニークなのである。傑出した建
築は、「完璧な自然」ではなくて「完璧な人工物」という
相貌のものになってゆくからである。「建築の孤立」がこ
の意味で芸術としての建築を規定するのだが、そうした規
定はまた種々の現実と出会わなければならない。

タウトが日光東照宮を「キッチュ」と規定したのは、現
実にはいくつものレベルで解釈できる問題で、歴史のレベ
ルでみればそれは東照宮の反古典主義的、バロック的特性
を言い当てていたとすべきである。しかし歴史化してゆか
ない無意識の層でみたとき、人間的人為の結晶体たらざる
を得ない建築の根本性格を暗示していたかに感じられる。
タウトの意識とは別に、彼の「キッチュ」論を押し進めて
ゆくと、建築は帰する所「キッチュ」たらざるを得ないと
いうあたりまで行くことになるだろう。

しかしそれならば桂離宮はどうなのか、あれは「キッチ
ュ」ではないのかという疑問が浮んでくる。ボストモダン
建築を例にして言ったことだが、建築は周囲との背馳や断

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