チョ・パンサのいないドン・キホーテという大江健三郎氏 の評言が、すべてをいい尽していると思った。別のいい方 をすれば、ビラのイラストを挿入したり文字を変えてみた た りという、異化の手法を用いて一面で型の面白さを狙いな がら、何のアイロニーもなく主人公に、二十年前の流行イ デオロギーを唱えつづけさせているという作者の能天気な 脇の甘さが、この作品を実は型なしにしてしまっている。 むしろ作者はイデオロギーが型に吸い込まれて、完全に無 意味化されて行く残酷なプロセスをこそ狙うべきではなか ったろうか。 奥泉光『章と百合』、いとうせいこう『ワールズ・エン ド・ガーデン』の二作は、措辞と趣味は対照的ながら瓜二 つという印象を受けた。社会学・民俗学的な枠組を使って 小説を組立てるのが悪いとはいわないが、その結果が文学 になっていなければ話にならない。特に『章と百合』は意 味も無く長過ぎて、読了するのに苦痛を感じた。奥泉氏の 前作『滝』は、これよりははるかによかったと記憶してい る。松村栄子『僕はかぐや姫』は、「僕」が「わたし」に 変る瞬間だけが描けていればよいという小説なので、もし 四十枚以内でまとまっていればよい短篇になったかも知れ ないと思った。 大江健三郎 ひとり出産してその赤んぼうとともに少年の無償の支えな ふたりのモラルの質の高さ、ということは、作者自身が の便宜上カットされたにすぎなともいえようが、しかしそ のあたりに、こちらの小説の主人公の自分自身へのまなざ しの稀薄さというような欠陥が由来していると思う。 いとうせいこう氏『ワールズ・エンド・ガーデン』の 右の作品が近未来に向けての「ゴシック小説」ならば、 |