語学的次元では、タウト以前に日本人が「キッチュ」を 一方、昭和二年七月に初版を出した片山正雄の『雙解独 以上のように一しても、「キッチュ」を真に日本に持 ち込んだのは他ならぬブルーノ・タウトである、という命題 なり、俗説となってしまっている。「タウトは桂離宮をた たえる一方、日光をキッチュと呼んだ」という、巷間のキ ッチュ論者らの定型的了解の方がむしろ言説のキッチュで ある。それから脱却するためには、まずタウトを正確に読 まなければならないことは、全く自明と思われるのだが。 東京都心部の建築を視察した翌日、五月二十日に早くも 彼は朝日記者斎藤寅郎、建築家牧野正己と同行して日光に 赴いた。この日は車窓の農村風景を賞美し、金谷ホテルで 中食ののち中禅寺湖畔にバスでゆき、まだ水の流れ落ちて いない華厳滝を見てからモーターボートで湖上に遊んだ。 ...右には男体山の偉容、左には樹木の茂った山々。 荒々しい牧歌調だ。この辺は鹿や熊の狩猟区である、狩 猟小屋が見える。「赤岩」の近くまでいく。湖岸の樹々 が絵のように美しい。 (ローイッシュー タウトは日本の自然にはすぐ融けこむ人間だった。雄大 な遠望に接すればたちまち「英雄的だ!」と叫ぶようなド イツ人ふうの発想類型は、彼の場合自然に対してはあまり 発動しない。自然に対したときのタウトは構えたところを 示さず、自然である。この日はその後自動車を駆って龍頭 滝を見、じぐざぐ道を曲折して北上、白樺や小笹のあいだ を走って湯元温泉の湯滝まで行っている。 翌二一日が東照宮の日である。宿泊した南間ホテルを立 以上が「日光批判」なるもののすべてである。このあと 何がタウトに「キッチュ」と言わせたのかを読み分けて 次に赴いた東照宮でも同様に肯定と否定は交錯してい いのだ。神馬は蔵の タウトの日光批判、東照宮否認は、その衝撃で観光客や 参詣人の減少を招いたというものではいささかもなかった だろう。古来「日光見ぬうちは結構と言うな」という俗な フレーズが行われて、日光は多くの人間を招き寄せてきた が、この趨勢に何らかの変化を生じたとは見られない。建 築家タウトは、建築物がそこに建てば、人々が出入りし利 用することは拒否も阻止もできないことを知っていた。し かし反面タウトが「キッチュ」と呼んだことで、直接的に 観光客や弥次馬が増加したとも言えまい。この意味で、建 築家および建築論は現実の進行に対してはどこか無力であ る。もしくは彼の存在が有効に機能する次元を異にしてい る。 それは建築論の孤独ということだが、建築物そのものに も奇妙な孤立がまつわりつくのではなかろうか。ボスト・ モダンの声が甲高かったころ、方々で斬新で目を惹くポス ト・モダンのビルや住宅を見かけた。それらはさながら眼 を剥いたり、両手を拡げたり、パフォーマンスをしている 感じがした。ところがたいていはその両隣や前後に、不調 和な建物、全くこちらは関係はないと言いたげな何の特性 ももたない建物などが建っているのがひどく眼についた。 それは整然たる都市計画が一向に成立しない 日本的現実 でしかないのだろうか。だが東京よりはその点「進歩」し ていそうな海外の都市でも、ボスト・モダンとその周囲の たたずまいには似たような問題が発生しているのではない あるが、これらの芸術のきわめて純度の高S傑出した表現 建築だけがおそらく「完璧」と「自然」を切断してしま タウトが日光東照宮を「キッチュ」と規定したのは、現 しかしそれならば桂離宮はどうなのか、あれは「キッチ |