ドニ・ディドロ『お喋りな宝石』と『修道女』 ほんとうのことを言うと、わたし、まだ原稿を二冊とも 開けてすらいないの。でも、批評家は読むべきものと読ま ないものを知っているはずだとわたしは信じているわ。こ のディドロという男なら、わたし知っているのよ。百科全 書をつくっている人で(むかし、うちでもゲラに手を入れ てたことがあるから)、今は、たぶん出版されることのな S何十巻ともしれない本の縁に手をふさがれている。時計 の内部だのゴブラン織りのタペストリーの細かな毛羽だの を写し取ることのできる画家を探しに旅に出ては、出版社 をつぶしてしまう男なのよ。ぐずでのろまな、こんな男 が、うちの叢書みたいな、なにか楽しい物語を書くのにふ さわしいとわたしはすこしも思っていないわ。わたしたち は、いつもデリケートで、かすかにうずくようなもの、た とえばレスティフ・ド・ラ・ブルターニュのようなものを 選んできたんですもの。わたしの故郷でもよく言うじゃな い、「菓子屋は自分の仕事をしているがいい」って。 フランソワ・D・A・サド『ジュスティーヌ』 原稿は、今週中に目を通さなければならなかった、別の もののなかにあった。正直言うと、ぼくはそれをぜんぶ読 まなかった。たまたま三度ばかり(三回とも違うところだ った)開いたけれど、修業を積んだ眼にはそれで十分だと いうことはきみたちにもわかっているだろう。 さてはじめは、自然哲学、生存競争の厳しさに関する論 す。そのためにこの作品は、文体の面でも物語の面でもレ ベルが「低い」ものとなっているのです。主人公はあろう ことか二人の貧しい恋人たちです。かれらはさる地方の田 舎貴族の陰謀によって結婚を邪魔されますが、結局最後に は結ばれ、すべてまるくおさまる、というのがその筋書き です。読者がなんとか読みくだかねばならない 六〇〇頁と いう分量に比してあまりに中身がないのです。またさら に、神の摂理に媚びるような教訓めいた言いまわしの好き なマンゾーニは、ペシミズム(率直にいえば、ジャンセニ スト風)の一撃をたえず私たちに加えつづけるのです。そ うして最後に読者につきつけるのは、人間の弱さと国家の 脆弱さについての悲観的な省察なのです。しかし読者が期 待するのはこんなものではない のです。英雄の物語であ り、マッツィーニ的情熱なのですから。あるいはカヴール 的熱意ということはあるかもしれませんが、「隷属状態に ある民衆」についての詭弁などではけっしてないのです。 しかしこれについてはむしろラマルティン氏にお任せした ほうが宜しいと存じます。なんでも見境なく槍玉に挙げた がるのは知識人の悪い癖で、これが本の売れ行きをいつも 抑えることになっているのですから。かれらはラテン的美 点とは無縁の異国のブランドでむしろ耳目を集めたがるも のです。数年前の「アントロジーア」誌をご覧になれば、 ロマニョージが見事なまでにたった二頁たらずで、かのヘ ーゲル、ドイツでは今をときめくヘーゲルの妄言を一蹴し たのがお分かりいただけるでしょう。しかしイタリアの一 味わいのある作品『ニコロ・ディ・ラービ』を読んでとき どき憂さを晴らしながら、やっとのことで私はこの『SS なづけ』を読み終えました。この作品は、一頁目を開い て、物語の核心にふれるまでに作者がどれほどの力をそそ いで長ったらしい脚にさわる文章で迷宮みたいな風景の描 写をつづけているかを見ればそれで充分です。その描写た るやあまりにごちゃごちゃしていて何を言っているのかさ っぱり分かりませんが、私が思うには、「ある朝、レッコ のある地方で......」というだけの至極つまらない意味しか 持ち合わせない は結構受けるだろう。 だが作者は検閲下でこれを書いたらしい。ほのめかすば こういった若い作家連中は、自分達が「さる時、さる所 ジェイムズ・ジョイス『フィネガンズ・ウェイク』 頼むから、ぼくに本を読ませようというのならもっと気 (一九七二年) |