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のようなものだった。お昼だ、家に戻らなければ、お腹が
すいた、というようなことに急に気がついた。お昼という
時間の観念も、家というもの、家族というものに対する気
持も、その瞬間に生まれたようなものだった。晴れた春の
正午の静かな光のなかで、山吹の花と孔雀たちの濃いにお
いとともに。

私はあたりを見まわす、とても新鮮な気持で、驚きと
好奇心ととてもふしぎな思いで。近くに人影はなかった
(門のところには警護の警官がいたはずだけど)。まわりか
ら足もとの砂利を眺め、それから空を眺めた。初めて意識
して眺め上げたのたたずまいを、いまも思い浮かべるこ
とができる。視野の端に突き出ている「虎屋」の煙突の端
の方も。

雲はぎらついていなかった。重さのないもののように
軽々と、穏やかに純白に浮かんでいる。白のにおい、にお
いのない においをそっと滲み出している。青い空の部分
も、どぎつく青過ぎなかった。太陽そのものは見なかった
が、波長が短くて整った光が空の全体にゆき渡っているの
が感じられた。ただ天頂の、真上のあたりは幾分白っぽく
遠く高くて、そこから四方に下がってくるにつれて青味が
増してくる。青味が増すとともに光が幾分薄れてくる。完
全に膨んだ薄いゴム風船(空色の)の内側の感し。どこに
もたるみも傷もなく、歪みもない。

る。ところが妙なことに、そういうことを知っている部分
よりもっと深いところで、もっと濃密に、もっと強く、も
っと明瞭に、もっと身近に、もっと自然に、空と雲と光と
丸い大きな空間と自分との存在が、直接にわかるのだっ
た。自分の頭上にまわりに球体の世界があるということ
と、そんな丸天井の下に自分がいる、ということとが、ふ
たつの別のことではなかった。地球が丸いとわかったこと
と自分というものが いると初めて実感したこととが、同し
ことだった。そしてそのぎりぎりの感覚の内側には、家族
も知人もいなかった。私はひとりだったが、決して孤独で
はなかった。

四歳のときである。五歳の春だったかもしれない。六歳
になって小学校に入ったのは、家族とともに朝鮮に渡って
しばらくたってからだったから、六歳以後ではありえな
い。

小さな広場ほどもあるひと気ない真昼の広い道の真中
で、まぶしいような思いとともに空を眺め渡している子供。
そのようにして、私たちは不意に世界のただ中に現れ

あるいはそのようにして、世界がいきなり私たちのまわ りに出現する。

田原から赤坂離宮の前に出る東宮御所北側の道である。御
所の塀は高く、内側の樹々の茂みは深く、道路両側の街路
樹も高く、その樹蔭はいつも落ち着いている。人通りはな
く車の数も多くない。

この道は御所の裏に当たっていて、こんな塀の外に出た
ことはなかったはずなのに、時折この道路を車で通りかか
ると奇妙に気分が静まる。懐しいという気持とはちがう。
思い浮かぶ記憶は何もない。にもかかわらず、この道路の
濃, に染まった空気は肌に和む。それほど長い道路では
なく車は数分で走り抜けてしまうのだが、この道路は私に
とって特別の空間だ。単に道路のたたずまいがいまの自分
の気分と同調するものがあるからだけなのか、何か隠れた
記憶が無意識に働くのか、全くわからない。

かなり明確な記憶(たとえば五年間もそのあたりに住ん
で)はあっても、後になって意識の内側に何もひびいてこ
ない場所があり、思い当たる理由はないのに肌になじんで
くる親しい空間がある。そしてこの世界のたいていの場所
はひとりの個人にとって、ほとんど意味のない単なる空間
だ。そこが何という場所かどういう建物か、頭の一部で聞
き知っているだけだ。そこは星のない真空の宇宙空間に似
ている。熱を発する恒星も水のある惑星も、奇蹟に近い例
外の存在でしかない。
私たちは決して均質な空間、切れ目なく流れる時間を生

だけ従って。

世界が広くて丸くて大きなことがわかった出来事と多分
近い時期に、母の実家の物置に閉じこめられるという事件
があった。

偶然に閉じこめられたのではなく、侍従の祖父の手でお
仕置のため、力ずくで物置にほうりこまれて戸をしめられ
たのである。何かを壊したかウソをついたというようなこ
とだったが、絶対に冤罪だった。

この冤罪の感覚はいまもなまなましい。祖父は威張って
もなく大きな声を出す人物でもなかった。その祖父が私の
弁明に全く耳をかさなかった。

物置は三畳間ほどの広さで、いろんな家具や道具が詰め
こまれていた。真暗でカビくさかった。外からしめられた
板戸の一ヵ所に節穴があって、そこからの細い光だけが射
しこんでいた。そういう場所に閉じこめられたこと自体は
それはどこわくはなかった。全身にこたえたのは冤罪の事
実であり、理不尽の強い感じであり、この世界には泣きわ
めいても、幾ら説明しても了解されない暗く大きな力があ
る、ということの恐怖だった。

母も私の主張を聞きもしなかった。祖母も家の中の全員
が、正当に判断しなかった。世界は底深く不条理なものに
浸されている不気味なところだ、とりわけ他人というのは

所に積み上げてあったのである。

誰に教えられたのでも、本や雑誌で読んだのでもなかっ
た。ごく自然に自分の中から湧き出てきた世界構築のよろ
こびだった、自分の小さく親密な世界の。

小学校でいじめられたというようなことはない。とくに
病弱だったわけでもない。近所の子供たちとも結構遊んで
いたし、夏には絵のように美しい洛東江の支流で、雨の日
でも泳いだ。とくに活発に明るい子供ではなかったとして
も、陰気にいじけた子供では決してなかった。

最初はふたつ三つ木箱を積み上げた程度のことだったけ
れども、次第に幾つもの出入口があって(子供がもぐりこ
める程度の)、そのうちには行きどまりの道もわざとつく
って、そのうちひとつふたつの道だけが、一番奥の聖所に
到り着くことができる。幾重にも曲がり、上へ下へと滑り
降りたり這い登ったり、迷路は複雑をきわめた。最初に設
計図を書いて作ったのではなく、気分のままにつくり出し
てゆくがらくたの通路が、まるでひとりでに新しい道をつ

有元利夫全作品

美術界に新風を吹きこみ三八歳で早逝した安井賞作家の初のレ ゾネ。卒制から一九八四年までタブロー三七一点、版画一三〇 点および初期・未完成作品を収録。 定価5000円(税込

新潮社版

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