ページの画像
PDF
ePub

の金をあんたに渡すのはやめる。わしの女房の言うとおり じゃ。責任の有る無しは、警察が判断しよる。わしに責任 があるなら、法律がわしを裁くじゃろう。法律で裁かれた うえに、あんたに金まで払うなら、わしが、あんまりにも 可哀相じゃ。政夫が死んだことへのお見舞金は、わしが警 察から何のお咎めもなかったときに、あんたに渡すことに するけん」

熊吾はそう言って、紙幣の入った封筒を房江に投げて寄
とした。房江は、それを喪服の衿に差し入れた。

この、いかさま師......。房江は夫の横顔を見て、胸の内
そうつぶやいた。どうしてとっさに、このような策略を
思いつけるのであろう......。きっと、政夫の母親は、金欲
しさで、いますぐにも警察へ行き、松坂熊吾には何の落度
もない、周りの者たちの忠告も聞かず、窓を大きくしたの
は息子であると訴えるだろう。

房江は、別の部屋で事のなりゆきをうかがっている音吉
のところに行き、葬儀の喪方をつとめてくれたことに対す
る礼を述べた。
「あの強欲ババア」

音吉は言って、手酌で酒を飲んだ。
「まあまあまあ、金のことなんかを、こんな葬式の日に口
にせんでも。寿命じゃ、寿命じゃ。政夫が死んだのは寿命
じゃけん」
政夫の叔父が座をとりなすように言い、何人かの親類た

促して、松坂の家から去っていった。 「クソ坊主め!女房

を能吾に伝えた。
「いっつも屋根で踊っちょったわしが落ちんと、ダンスホ
1ルの窓から政ゃんが落ちよるなんての お......。政やん
は、酒でも飲んじょっかな・し」

と音吉が言った。
「酒の匂いはせんじゃった。あの夜は、お酒は一滴も入っ
とらせんじゃった」

泣き腫らした顔をやっとあげてタネは言った。
「はずみっちゅうやつやのお。たしかに、二階の窓は普通
よりも低いとこについちょるが、よっぽど体を前に乗りだ
さんと落ちはせん。何かの物のはずみじゃ。誰のせいでも
ありゃせん」

熊吾はそう言ってから、初めて、タネにいたわりの言葉
を投げかけた。
「政夫は、ことしの春に、一本松の突き合い駄場で、魚茂
牛に突き殺されろとこじゃったのに、たとえ九ヵ月にせ
よ、命を延ばした。その九ヵ月のあいだに、政夫の身には
いろんなことがあったが、女房を亡くして、お前と晴れて
一緒になることを決め、明彦とも多少は心を通わせて父親
らしいことの真似事もやりよった。タネにとっては誠に辛
い話じゃが、不運は不運として乗り超えていかにゃあいけ
んぞ」

ずいぶん長いあいだ、着物を着るということがなかった ので、帯が苦しくて、房江は部屋に戻ろと、セーターとス

房江はそんな気がして、熊吾や音吉に勧められるまま酒 を飲んだ。 「房江、目尻が垂れちょるぞ」

と熊吾が言った。楽しそうな言い方ではなかったが、房 江は、それを、葬儀のあとという状況のせいだと思った。

城辺町から深泥への道は、御荘湾を眺望しながらの山の
瀬の道だった。きつい坂が曲がりくねって昇っているが、
眼下には穏かな御荘湾の入江と一本釣り用の鰹船が見え
て、房江は、伸仁を歩かせたり、ときおり音吉に肩車して
もらったりしながら、しょっちゅう歩を停めて入江の景色
を楽しんだ。

深泥の集落から山側へ少し外れたところに、熊吾の従弟
一家が住んでいた。房江は、その唐沢家の子供たちが、正
月の三日がすぎても城辺町にやってこないのは、きっと政
夫の葬儀の直後ということで遠慮しているのであろうと思
い、自分のほうから出向いてきたのだった。

唐沢家の子供たちは、気前のいい熊吾おじさんのお年玉
をあてにしている。おととしも去年も、唐沢家の子供たち
は元旦に深泥から訪れて、かつて一度も貰ったことのない
百円札に茫然とし、その代償として、日が暮れるまで伸仁
と遊んでくれた。ことしも、熊吾おじさんのお年玉を楽し
みにしていただろうに、両親に言い含められて、行きたく
ても行けないままお年玉のことばかり考えているに違いな

しかし、茂十が訪れた日以来、熊吾は一度も選挙のこと
を口にしなかった。茂十の不治の病が、よほどこたえたの
だろうか......。房江は、疲れてぐずりだした伸仁を励ま
し、坂道を昇った。

唐沢家の屋根と天井のあいだには、もう何年も一匹の青
大将が棲みついていた。胴の太さは直径五センチもあり、
家のなかの風を獲ってくれるありがたい存在なのだと唐沢
家の嫁は言う。

自分の頭上に大きな蛇がいるという意識さえ失くなれ
ば、房江にとって唐沢の家は、なぜかとても落ち着く場所
だった。

房江は、唐沢家の人々と新年の挨拶を交わし、
「はい、これは熊おじさんからのお年玉」

と言って、三人の子供たちにぽち袋を渡した。伸仁は、
唐沢家の人々に迎えられるなり、兄妹たちの体に「みたい
にしがみついていた。
「なんと、なんと、房江さんとノブちゃんが、わざわざお
こしんさるとはなし」

房江よりも二歳年長のイツは、三人の子供たちへのお年
玉に対する礼を何度も述べてから、その小柄な体を機敏に
動かして、正月用の重箱を運び、大豆の入った餅を切っ
た。熊吾の従弟の政市は、そんな妻をさらにせきたてて、
竹製の筒を持ってこさせた。なかには刻んだ煙草の葉が入
っていた。

« 前へ次へ »