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あなたのほうが赤みがかった大きな塊の誘惑を目の前に
してヒゲをもてあそぶこともあれば、赤みがかった塊のほ
うが、あなたの視界にそそのかされて黄色いざらついた紙
の上に分泌液を滴らせることもある。とぼけても無駄だ。
ほらまた食卓の上の肉を食いいるように見つめているしゃ
ないか。

つまりあなたは今まさに、その肉を我がものにしてくれ
ることになる跳躍を実行に移そうとしている。あなたの跳
躍の起点から食卓の表面までは六歩ある。だがもし視線を
食卓の脚の方向にもどせば、今度は脚の傍にまた別の管状
の面がふたつあるのが見えるはずだ。それらも色は焦げ茶
で同じだが、外観は硬いいうよりたよりない。こうして
あなたは、肉でも食卓でもない、ある補足的実体に気がつ
く。ふたつの不安定な補足的表面の下、床の位置に一対の
ぼんやりと卵形をした焦げ茶色の塊があることに気づくだ
ろう。上部の表面にひろい亀裂が走っていて、その両端は
同じ焦げ茶の糸のもつれで結ばれている。もう分かっただ
ろう。かれが食卓の傍にいて、かれが肉の傍にいるのだ
いうことが。もうあなたはけっして跳躍を敢行しない。

あなたは自問する、こうした事態が過去にも自分の身に
ふりかかったことがあるだろうか、そして食卓の正面の壁
を飾る大きな絵のなかで似たような場面を見たことはなか
っただろうかと。だがその絵はにぎやかな居酒屋の片隅に
男の子がひとりいる光景を描いたものだ。中央には大きな
肉の塊ののった食卓、そして食卓の傍には、だぶだぶのズ
ボンに焦げ茶の靴を履いて立っている兵士のすがたがあ

の上にあった肉なのか、絵のなかの男の子なのか、それと も絵のなかの猫の澄んだ瞳に映っていた猫なのか。こんな のは生活ではない。

あなたは必死になってこの記憶を消すための消しゴムを 探すだろう。あなたの尻尾が、あなたの背後でつながって いる部屋の二面の壁が形成する九〇度の角に向かってだら しなくすべっていく。あなたは自問する、自分が猫である という条件が自分にこうした客観的な形で世界を見せる結 果をもたらすのか、あるいは自分の迷い込んだ迷宮は、自 分にとっても、食卓の傍の男にとっても日常的空間なので はあるまいかと。それとも男も自分も、あの自分の上にあ る眼の幻覚にすぎず、それが自分にこんな緊張を純粋な文 学訓練のために甘んじて受けるように仕向けているのでは ないかと。もしそう考えているならまちがいだ。あなたが 自分で体験した事実を統合することを可能にする関係がな にか存在するにちがいないからだ。あなたをその場に立ち あわせた事実、あなたが居合わせたことによってあなたが 見られた事実。あなたが見たあなたとともに見られた事実 との曖昧な関係のなかで、あなたが不動のあなたを見た事 実。あなたはもしかしたら自分も一二一人宣言に署名でき るかもしれないと考えている。それとももしかしたら自分 が一二一人によって署名された宣言そのものかもしれない と。仮に、あの男があの絵めがけて跳びかかって男の子を 口にくわえたので、あなたが絵のなかまで男を追っていっ たのだとしよう、居酒屋のドアをくぐり通りに出ると、白 っぽいふわふわの雪が舞っている、はじめは斜めに、やが

いと思っているのだ。さてこの猫には筋の逆転や急転換や
予想もつかなかったような素姓割れが起こるかもしれない
(かれには実の母親と寝た過去があるかもしれないし、血
のしたたるような大きな肉の塊を手に入れるために実の父
親を殺した過去があるかもしれない)。そしてこうした出
来事を積み重ねていくことによって、突然猫たちの読者を
同情と恐怖の場面へと引き入れるのだ。事件の論理的展開
が突然の大詰めにおいて最高潮に達し、あらゆる緊張が最
後に解放された結果、猫たちも、そしてその感動を組織し
たあなたも、いわば純化もしくはカタルシスを享受するこ
とになるだろう。

さてあなたは、こうした展開なら自分がこの部屋や、そ
してあの肉や、そして多分あの男と男の子の支配者になれ
ることを知っている。否定してもだめだ。あなたは異様に
この未来の猫への道にご執心だ。だがそんなことをしたら
あなたは前衛派だと非難を浴びることになるだろう。あな
たは自分がそんな物語を書かないことを知っている。あな
たはそんな物語など一度だって考えたこともない。あなた
は肉の切れはしを横目で見ながらそんな物語を考えること
ができたということを一度だって話したことがない。あな
たはこの部屋のあの片隅にうずくまったこともない。

Sま一匹の猫が、部屋の壁面が直角をなして交叉する角 にいる。かれのひげの先端から食卓までは五歩ある。

(一九六一年)

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