経つにつれてきみにも信念が生まれてくるよ。そう して大 人になってみれば、赤頭巾ちゃんも、白雪姫も、銃や大砲 も、人間同士の争いも、魔女と七人の小人のたたかいも、 軍隊同士の戦争も、みんながみんなお伽話だったんだって 思えるようになるさ。でも将来、きみが大きくなったとき にも、魔女や小鬼や、軍隊や爆弾や徴兵制度なんていうき みの子どものころの夢に出てきた恐ろしい怪物たちはまだ きっといると思うよ。そのとききみはそんなお伽話に批判 精神をもって臨めるだろうか、そして現実のなかで批判的 に行動することを学べるだろうか。 (一九六四年) 新潮社版 太陽信仰、神々の物語、夢の知恵・ 謎に充ちたインディオの習俗に、 代が忘れ去った知を見出す6 世紀に破壊された。沈黙の文明。の姿 を探るエッセイ。 定価2500円(税込) ような若さとスコラ哲学のアナロジーに対する若き日のス ティーヴン・ディーダラスの憧れと、成然のヴィー「的循 環や抒情的文体のめまぐるしい言語学的使命との結合、つ まり抒情詩の文体と劇や叙事詩の文体、伝統言語と未来言 語、言語における実験と初期作品群における小説構造との 結合を実現するためにである。 かくしてわれわれは、後続の作品に照らすことによっ て、それに先行する作品の性質と機能とが、延いては「ウ ェイク』そのものが明らかになり、ティム・フィネガンの 葬儀のヴェールが実はレンツォとルチーアの婚礼のヴェー ルであることが見えてくると考える次第である。 『いいなづけ』は『フィネガンズ』が終わるところから始 まる。つまり『フィネガンズ』が「川走り」をもって閉じ る際の液体的要素のテーマを再開することによって始まる のである。事実本書も、ある水の流れの描写とアイルラン ド人のみに備わった能力である緻密なパロディーとで幕を 開け、まさしく前作をなぞり嘲ることで始まっている。で は『いいなづけ』は実際どのように始まっているのだろう か? 読んでみることにしよう。「連綿と続く二つの山脈 と山脈にはさまれて南へのびるコーモ湖の峡谷の一つは、 その山脈が突き出したり退いたりするにしたがって、ある いは岬や鼻となり、あるいは入り江や湾となっているが、 右手から山の一角が張り出して、その向かいからもなだら かな斜面が迫ってくると、湖面はにわかにせばまって、湖 はまるで川の流れのような姿をとる....」 」 この作品の語りの枠組みは素っ気ないほど簡潔なもの で、ある観点からみれば『ユリシーズ』のプロットの〈戻 り歌〉として見ることができる。レオポルド・ブルームの たった一日の叙述に見えたものが、ひとつの町全体、さら には世界全体に関する言説へと変容していったのに対し、 本書では、物語は一見、ひとつの地方全体、さらには帝国 (あのスペインの)を巻き込む一連の歴史的事件が複雑に 絡まりあっているかに見えて、実は主人公レンツォ・トラ マリーノのたった一日の出来事を扱っているのである。 ある朝早く、いいなづけルチーア・モンデッラとの挙式 の打ち合わせに村の司祭ドン・アッボンディオのもとを訪 れたレンツォは、領主ドン・ロドリーゴが結婚に反対して いることを知らされる。司祭との激しいやりとりの末、レ ンツォとルチーアはカブチン修道会士クリストーフォロ神 父の手助けで故郷を抜け出し、ルチーアはモンツァの尼僧 院に、レンツォはミラーノにそれぞれ身を隠す。その日の 午後、青年はミラーノである騒動に巻き込まれ、止むなく ベルガモに逃れ、一方ルチーアは、尼僧ジェルトルーデの 手引きを受けた悪漢インノミナートによって誘拐されてし まう。しかしミラーノの枢機卿のおかげでルチーアは自由 の身となる。日暮れに、ミラーノでは突然ペストが蔓延 し、ドン・ロドリーゴ、ドン・アッボンディオ、さらにク リストー フォロ神父が次々死んでゆく。レンツォがその 晩、急いでベルガモから戻ってみると、ルチーアは無事 で、その夜ふたりは結ばれる。ご覧のとおり、これは一日 |