ページの画像
PDF
ePub

四月最後の日は朝からしとしと雨だ。雨を見るとセンチ
メンタルになる。ホームシックに似ていないこともない。
靖国神社祭でもあるこの日はまた水産課に大量の鎌が入荷
した。仙吉は魚屋の小僧になって自転車に箱ごと積んで下
宿へ運びこんだ。この前同様小母さんは手放しの喜びよう
だった。それでも仙吉には感傷がつきまとう。見るもの聞
くもの初物ずくめの四月が終わって少し物足らない気もす
るけれど五月も好きだ。

期待は裏切られるためにあると仙吉は思う。好きな五月
が明けた初日は水産課の一年生給仕にとってはもののみご
とに厄日となった。まず野村だ。漁政課の属官の木之内勘
造さんに裏口へ呼び出されてビンタを食らったのである。
木之内さんは課内ではカンさんカンさんと呼ばれていたの
で野村もカンさんと呼んだのである。
「心安だてに給仕風情が身分を知れ」

と、どなられて往復ビンタを食らった。連れ立って昼の
お湯を汲みにいくとき野村は涙を浮かべていたけれど、給
仕になってもうひと月たったというのにばかなことをした
ものだ。

わるいことは重なって刈田も怒られた。庶務の伊勢主任
に膣写版印刷をいいつけられて、何をあわてたものか写
版に原紙を裏返しに貼りつけたのだった。一枚刷ってみた
ら何にも写らないので失敗に気がついたのである。
刈田が泣きついてきたので荷造りの仕事を中止して仙吉

への往復四キロ、学校へは五キロ。毎日十キロ近く歩くの で靴の損耗の甚しいことが身にしみていたところだ。

おまけに役所から借りたばかりの自転車が実は食わせも
ので、強くペダルを踏むと男の断末魔のような悲鳴をあげ
るので気恥ずかしかったところへはやばやとパンクしてく
れた。修理代は自分の懐から出すしかない。札幌駅近くの
自転車屋へ押していき、パンク修理と悲鳴音の解消で思わ
ぬ出費をした上に、道庁前の朝日食堂で天丼やカレーライ
スを野村や刈田におごったりして来勢に食べすぎ、懐中が
わびしくなったのである。母光代あてにSOSを発信した。

前略母上様。小生は革靴が破れて恥をかき候。教練
の歩行訓練中に靴がぱくぱくせし故、新品を購入せんと
すろも只今の処やや経済困難故断腸の念抑へ難きも無心
致し候。絶対無心せずと決心致し居候へ共、ゴム長靴で
は恥づかしく古きズック靴を履いて居りますが雨が降る
と困り候故御願ひ申上候。敬具

仙吉より
一夜、下宿の新聞で『ガダルカナル島血戦記』を読ん
だ。悲憤慨その極に達すである。のんびりとヴァイオリ
ンなど弾いている場合ではないのだけれど、床に入ると茶
の間のラジオからチェロの『今様』が流れてきた。いやな
ことは忘れろといわんばかりなので仙吉は耳を澄ませうっ
とりとそれを聴いた。
大和乙女の美談なりとて俘虜共に

物を与へし事新聞に

一斉にとりはずされたので課内はまるで晩秋の寒さであ る。だれもが鳥肌立ててえながらの執務だ。

野村の頭はよっぽど脆くできているらしく今日も頭痛を
訴え、伊勢主任の冷眼を背に午後から早退し、仙吉は二重
に多忙だった。刈田と二人で支庁や大日本水産会に送る書
類の梱包作業に追われるかと思えば、急な出張者の旅費概
算払 い の使い走りだ。しかしこの仕事にはちょっとした楽
しみがある。ハンコと伝票を持たされて本庁舎地下の現金
出納室へ走ってゆくといつも他課の給仕たちが列を作って
いるけれど、順番がきて窓口で出納係の札束をかぞえる手
つきを見ているとほんとに感心するのだ。左手の札束をみ
るみる扇形にひろげていき右手の指で四枚ずつ下へ折りと
むようにかぞえてゆく。色の白い美男子だがその速い指の
動きは手品を見ているようだ。いつまでも見ていたい。

札束を大事に抱えて走って帰ろうとすると、一階に通
じる階段のぴかぴかの手すりに跨ってうしろ向きに滑
降りてきた給仕がいて、運わるく通りかかった守衛にみつ
かって頭を小突かれた。給仕は一乙の小山だった。小山も
出納室に用があったらしいのだが、階段は登り降りするも
のであって滑るものではないと子供だましの説諭をする守
衛に向かって、小山は少しでも急いだ方がよいと思ったの
で手すりを滑ったのだと抗弁していた。給仕がおとなに口
ごたえする場面を仙吉ははじめて見た。
四時すぎに小使室で茶碗を洗い終わって登校するときは

仙吉はびっくりして無言で首を横に振った。
「勉強は終わったんだろ、つきあえよ。そろそろ社会勉強
もしておくもんだ」

だめです梅川さんに叱られますというのにアキラさんは
ずかずかと入ってきて、仙吉の寝巻の腕をとった。ぶんと
酒の匂いがした。
「梅ちゃんは当直だろ、心配するなって」

しかたなくあとについて八畳間に入ると福島さんや土屋
さんもいて酒盛をやっているのだった。ひろげた新聞紙の
上に一升環が立っていた。かんづめや身欠き鹸が見える。
黒い布で覆った電燈にタバコの煙が引き寄せられて濃く
っていた。大工の福島さんはとろんとした目をして肘枕で
横になっている。
アキラさんが純情なる客人がきたぞといいながらどすん
とあぐらをかき、自分の茶碗をしゅっと吸って仙吉に突き
出した。

仙吉が受けとったままの恰好でいると、アキラさんは、
「さ、ひと息にやってみな」

といって一升壊から半分ほど酒をついだ。 恐る恐る口にした冷や酒を仙吉はうまいと感じた。下を 向いて思い切って飲み干した。 「いい飲みっぷりだ、もういっぱいやりな」 「もういいです」 「駆けつけ三杯というやつさ。酒は押入れにまだあるん

土屋さんが仙吉の背中をとんとんと叩いた。
「いきなり吸うなといったろ」
「だ、だめです」

まだ咲きこみながらタバコを返した。役所では毎日のよ
うに買いにやらされるタバコが、これほどにおとなっぽい
代物で簡単には手に負えないものだとは知らなかった。
「ごちそうさまでした。もう寝ます」

くすくす笑う三人に頭をさげて部屋に戻った。頭がしん
しんしていた。しかしわるい気分ではない自分自身を仙吉
はめずらしいものに思った。

夜具に腹這いになって日記を開き、まず「俺の大馬鹿野
郎!」となぐり書きした。眠くなってくるのを休えて一首
認めた。

たはむれに誘はれて服みし巻煙草

堕落を悟りてぞっとしにけり
五月なかばアリューシャン列島のアッツ島に米軍が上陸
し、わが守備隊との間に激戦展開中という報道である。北
海道でも室蘭市が艦砲射撃を受けた。これではヤンキーと
ても侮るべからずである。

郷里の国民学校で親友だった安東茂雄が横須賀の海兵団
へ出発するというハガキがきたけれど、札幌では下車しな
S そうだから見送りもできない。

芸術を志す者は軟弱な卑怯者だろうかと仙吉は考えはじ めている。さしあたりどうすればよいか判断がつかないが

« 前へ次へ »