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ない顔で、うなずいた。
「ここは、どなたかの紹介ですか」
「いえ。ちらしをみて」

先日、江南の意見でもう一度新聞にちらしを入れた。や
はり効果があるらしい、と聞き耳を立てていた津山が感心
していると、江南は、
「よかったら、特別相談を受けられたらどうですか。うち
ではとくにお金はとりませんし、気功治療もいたしますよ」

と女をさそった。うなずいているところをみると、女は
相談に残るつもりなのだろう。津山は、困ったと思った。
「お子さんかなにかのご相談ですか」
という江南の声が、遠くにきこえた。

二階の特別相談室も、やはり和室である。大きい家具は なにもなくて、座布団が三枚敷いてあるだけだが、入り口 のそばに、津山の妻の使っていた折畳みの文机がおいてあ る。その上には、妻がいたころ誰かから贈られた螺鈿の盆 がのっていて、無料ということにはなっていても、出して もらいたい心付けを受けるようになっている。地味なのに 目立つ螺鈿の盆は、そういうことにはとても役立つようで ある。

心付けの中には、時として何十万というのもあるから、 ミネラルウォーターや香の代金、交通費などのような経費 を差し引いても、たっぷり余ることのほうが多いのだが、

れで津山は感激して、一度も払ってもらったことのない電
話代のことを簡単に忘れてしまうのだが、矢崎が津山の家
に泊まり込むのは、電話代だけではなく、ついでに生活の
面倒もみてもらいたい からのようでもあった。矢崎にはい
ろいろ教えてもらっているからな、と津山はそのたび自分
を納得させているが、金銭に関していうと、どうも矢崎た
ち二人は、津山の好みからは大幅にずれている。

会社を定年でやめたとき、津山は、年金に組み込んだ退
職金から五百万だけ現金でもらってきて、妻にやったが、
妻は遣うこともなく亡くなったので、その金は利息ととも
にまた津山に返った。その上妻の生命保険までおりたの
で、今では津山が経費だなんだと事細かにいうこともない
のだったが、金銭関係をきっちりさせたいのは、会社勤め
が長かった津山の性格なのである。だから、
「そのうち会がもっと大きくなれば、津山さんのほうの経
費も出るようになるでしょう。今はなんだか津山さんにば
かりおんぶしてますね」

と思い出したように矢崎に恐縮されると、津山はいつも
嬉しくなるのだった。矢崎はやはりいい人なのだ、とすぐ
に安心するのだが、本当のところは、矢崎はただ勘が非常
によくて、津山が心の内で思うことを、たちまち見破るだ
けのことかもしれない のである。きっと、人の心を盗みみ
ることの天才なのだろう。
津山は先に二階へあがると、心を落ち着かせようと、特

人がいるから、なんなら紹介してもいい と矢崎はいうのだ が、その洋品屋は断っていた。万が一失敗したら困るとい って、津山の手かざしのほうが、たとえ効かなくても害が ないだけいい、というのだった。 「津山先生のだって、少なくともその日一日は効いてるか らさ」

と笑うその男は、螺鈿の盆にかならず千円入れたぽち袋
をおいていく。

男は、矢崎や江南の案内やなしに一人で入ってくると、
いつものように、腰が痛くてね、と天候の挨拶のようにい
って、自分からさっさと畳の上にうつぶせになった。津山
は矢崎の真似をして、腰のあたりに手をかざしてみなが
ら、そう悪くもなってない、と無責任なことを呟いた。治
す力はついていても、どこが悪いのか探る力はまだないの
である。
「今度痛みがひどいときは、腰痛以外のことを考えるか、
腰痛のことばかり考えてみてくださいよ」
「以外って、商売のことでもいいの? それともタンポポ
の咲いている野原とか、またそういうのを考えるのかな」
「タンポポでも銀行の残高でもなんでもいいのだけど、と
にかくなにか没頭して、夢中になれるものを考えるので
す。そうすると痛みは感じなくなるはずだから。人間の身
体って、二箇所で同時になにかを感じるってことはできに

:

きやすいのだと矢崎に教わったのである。

男が起きてから、津山が、どうですか、ときくと、男は、 「ああ」

とこたえた。痛いといわないから、痛みは忘れているの
だろう。

男はいつものように、新聞屋が正月に配る、子供っぽい
模様のついたぽち袋を盆の上においていった。そっちのほ
うにも、なにか違った暗示をかけたほうがよさそうだった。

次に来たのは、津山の家の近所の奥さんだった。空腹で
もないのに、やたら食べたくてしようがなくなるという。
前に来たときは、空腹なのに食欲がないといっていて、矢
崎は、あれはストレスですよ、といったのだが、津山は近
所だから、あまりストレスの原因をつきとめるのは具合が
悪いと思っていた。その日は、矢崎がなかなか二階へあが
ってこないので、津山は自分ひとりだけのところで、奥さ
んを寝かせて診断するのもなんだからと、坐ったままの奥
さんに、舌を出してみてください、といった。
「ずいぶんと白い苔がついてますね。それじゃあ味もわか
らないし、満腹するわけもないでしょう。毎朝歯ブラシで
こすって、その白い苔をとってみてください。食欲がおち
て、食べたいと思わなくなりますよ。ご主人も喜ぶかな」

白い苔は口臭のもと、と矢崎のSっていたことを思い出
して、津山はそういったのだが、奥さんは違う意味にとっ
たのか、疑わしそうな目で津山をみた。

をおさえられなくなった。 「今井さんとおっしゃるそうです」

矢崎は、女に座布団をすすめながら、津山にいった。
「今井征子でございます」

津山は黙って頭を下げた。なんだか喉がからまっている
ようで、声が出そうにないのだった。津山がなおも黙って
いると、
「こちらは、ご主人が六ヵ月の命といわれたのだそうです
ょ」

と矢崎がかわりに話し始めた。
「脳腫瘍で、もう退院はされてるそうだけど、治ったから
ではなく、腫瘍をとりきれなかったからなんだそうです。
おうちは、お蕎麦屋さんでしたよね」
「はい。隣町で先代から蕎麦屋をやってるんですけど、主
人は二年前にも胃の全摘でお店を休んでるんです。今ま
た、もう三ヵ月も休んでるわけで、いったいどういうわけ
でうちばかり......」
「わたしも胃がないんですよ。胃も十二指腸も空腸も膵臓
もない。やっぱり二年ほど前に全部とった......」

津山が突然口をはさむと、今井征子は驚いたように津山
をみた。
「でも、とてもお元気そうで......。やはり脳が悪くなるの
とは違うみたいですね」
津山は当惑した。征子の気持ちを和らげようとそういっ

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