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い十幾つの単語を並べるくらいのものである。あとは私た
ちと彼らの間では、同数くらいのウルドゥ語とシイナ語、
そして手ぶり身ぶりばかりであった。

それにハイ・ポーターたちは、すぐ上方のキャンプに進
出してゆき、一方私のほうは、アタックが迫って隊長と第
一キャンプまで行ったときを除き、ずっとベース・キャン
ブに居放しであった。それゆえ、山中でほとんど毎日顔を
合せていたのは、小柄で犬のような忠実な目をしたメルバ
ーン一人だけだったと言ってよい。

彼は一面おどけてひょうきんな男だった。初めてベース
・キャンブ地タカファリに着いて、本格的な山は初めての
私がなかなか寝つかれず、翌朝ひどく遅くテントから這い
だしてきたとき、彼はチャパティ(現地の薄いパン)とミ
ソ汁とゆで卵を持ってきてくれたが、
「バラ・サーブ、シックス、ドクター・サーブ、テン」

と、いかにも不満げな顔をしてみせた。サーブとは旦那
というほどの意で、バラ・サーブ(隊長)は六時に起きた
が、ドクターは十時だ、というわけである。更に彼は、
「ドクター・サーブ、ノー・グッド」
ともつけ加えた。
メルバーンの作る夕食は、決ってカレーばかりであっ
た。パキスタンに着いて以来、羊のカレーに食傷している
隊長は、メルバーンの隙を見て、羊の肉や飯を隣にいる若
S隊員の皿に分けてい

た隊員に聞くと、同じ夜、メルハーンはずっと寝ずにメス テントの地面に一人坐して、彼らの無事を神に祈ってくれ たという。とにかくメルバーンはそのような心の持主であ った。

それゆえ、私がカラコルムへ行ってみようかと思ったの
は、ほとんど交際のなかった他のハイ・ポーターより、メ
ルバーンに会いたい という心情が九割以上を占めていた。

と言って、カラコルム行きをその場で決めた訳ではない。
メルバーンの年齢は定かではないが、少なくとも私より五、
六歳は上のはずだ。かつての記憶では、あの地方の人間は
老い易いし、ミナビン村で診療をしたとき、赤痢かアメー
バー赤痢か分らぬが、血便患者がひっきりなしであった。
甲状腺腫患者もかなりいた。医者一人いない辺鄙な土地な
のである。果してメルバーンはまだ生きているだろうか?

私の気持と関わりなく、Hさんは活動家で饒舌な人らし
かった。

ミナピン村くらいまで行くだけかと思っていると、不老
長寿で名高フンザ王国をも取材したいという。番組の時
間は四十五分で、それにCMも入るから更に短くなる。

私たちの京都隊は十六ミリでかなりの撮影をしたはずだ
った。私はそのフィルムを小谷隊長が持っているはずだか
ら、それを使ってディラン一本にしぼったほうが内容も濃
くなるだろうと言ったのだが、Hさんは、
「むろん小谷さんもお訪ねしますが、テレビ局がそれを望

で五時間で行けるそうだ。
「ですから、もし天候が悪くてもその空路を飛べば、北さ
んが心配していた期日のうちには必ず日本へ帰れます」

と、Hさんは保証してくれた。
HさんはチーフであるKさんという人を連れてきたが、
Hさんのほうが饒舌なので、このたびの企画はHさんが主
導権を持っているようにも感じられた。

Kさんやカメラマンの一行三人がまず日本を発ち、私は
Hさん他三人と五月十八日に出発することになった。案ぜ
られるのは私の体力だけという状況であった。

悪いことに私は四月末から鬱期に陥っていた。鬱病のと
きは不眠を訴える人のほうが多いが、私のは非定型で、
船で上海から帰ってきてから、日がな眠くて眠くて堪らな
い。ほっておけば夕方まで寝る。それでは旅に支障が出る
から、目覚し時計をかけておいて午には起きるが、夕食時
になると堪えようもない眠気が襲ってきて、いくら妻が呼
んでもベッドから起上る気もない日もある。あまりしつこ
く催促されると、つい腹が立ってきて、
「お前、勝手に食べて寝ろ!おれは少し寝てから食べる
から!」
などと怒鳴ってしまうことも再三であった。
どうも齢をとってから、父の棚糖ぶりを受け継いできた
ようだ。
そして目覚めると、真夜中だったり、時には午前三時で

がなにより悪いか ら

そうこうしているうち、 たちまち出先日かべた。 その制作会社ではパキスタン航空と提携しているので、 酒は出ないが、もちろん私たちは成田でウイスキーを買い

う酒好きのHさんと、 スチュア
こんでいた。そしてけっ
1デスに氷と水を貰って飲みながら、それほど疲れずにカ
ラチまで来た。

途中、京都隊が扱ったフィルムはやはり使われぬことを
聞いた。昔の登山の記憶はさすがに懐しく、いかにも残
念な気がした。のみならず、ラワルピンディのバザール
や、更に新しい首都イスラマバードのモスクをも撮影する
とのことであった。東京での打ち合せでは、私はいわば副
人物として、三、四場面に登場すればいいような話だっ
た。それでは肝腎のカラコルムの場面はますます稀薄にな
るだろうし、まだ色の私は肉体的に更に苦しくなろう。し
かし、制作会社としては、万一テレビ局に売れなければ
大きな損害となろう。なによりメルバーンに会うためには
少々の労苦をも忍ばねばならない。

もっと若くて元気な私だったら、いやしくも作家である
し、できるだけの体験を求めるはずである。だが、このと
き機内でHさんとずっと話してこれたのも、単なるアルコ
ールの力にすぎなかった。それに老人ボケも加わって、H
さんやKさんの名前も出てこない ことがあり、もっとその
後の予定、撮影のコンテを話されてもすぐ忘れてしまいそ

なぜこんなに眠れないのか? 一つには文明国ならぬ土 地への思いがけぬ旅立ちの昂奮であろう。

そうして、半ば いらだちの中でチビチビと酒を飲んでい
ると、かつての登山のあれこれの断片が頭をよぎった。そ
のほとんどがメルバーンについてのことである。どうして
これほど、あの愛嬌のある、同時にもの悲しげな彼の顔立
ちが浮んでくるのか不思議なほどであった。

アタック隊が辛うして無事にアタック・キャンブに帰り
っいた翌日、私はフセインというハイ・ボーターと一緒
に、第一キャンプ からベース・キャンプ へ戻ることになっ
た。生れて初めての高山の長いテント生活で、私は疲れき
っていた。ずっと氷河の上の道中である。広からぬクレバ
スを先行する長身のフセインは易々と飛びこすのだが、私
にはせい一杯の努力であった。またしばしば休憩した。山
へはいった当初、「あいつら、さぼろさぼろとしやがる」
と隊員たちを立腹させたフセインも、このときは荷もない
ので、「ゴー?」と私をうながす。「ファイブ・ミニッツ、
モール」と私は答え、なおべったりと石の露出した雪の上
に坐っていた。 モアをモールと彼らは発音する。

ベース・キャンプに近づくにつれ、一ヵ月以上前そとに
到着した頃は雲原のようであった氷河も、すっかり雪が溶

け、荒S崖のように地肌を露出した中を、水流が川と呼ん でよいほどの巾で流れていたりした。 そうした荒涼とした道を、私は気

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