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たまま、「バラ・サープ。スリー・デイ、スリー・ディ、 カムバック、OK?」と繰返し、本当に涙をこぼした。彼 はかなり口早に

の犬のように忠実な黒い目には、確かに選が一杯にあふれ ていた。

小谷隊長も私と共に、アタックの素を除き、ベース・キ
ャンブでずっとメルバーンと過してきた。このたびの旅に
出発前、彼はメルバーンと他のハイ・ボーダーにと、手紙
とUSドルを送っきた。ハイ・ポーターへの手紙は簡単
なものだが、メルバーンへの手紙は長文のとてもよいもの
で、彼が泣いてくれたこともアタック隊のために祈ってく
れたことも書いてあったし、金額も百ドルという額であっ
た。もちろん時代も違うが、京都隊が行った頃は、山麓の
村人たちはほとんど現金収入がないと聞いた。私も土産は
現金が一番だと思っていたが、あまり金を与えるのはよく
ないと考え、漆塗りの箱と扇子と帽子とシャツを持参して
きた。
「それにしても、あいつはほんとにいい奴だった」

と、私はウイスキーをすすりながら、胸の中で呟いた。
すると、年甲斐もなく、目に涙があふれきた。涙まで出
るとは自分でも意外であった。私は手の甲でそれをおしぬ
ぐい、スタンドを消し、眠ろうと努めた。

その日は、ラワルビンディのバザールの撮影から始まっ
た。修期の私は人だかりのすることを怖れていたが、初め
露店のつづく大通りを見まわしながら歩くところを撮られ
るときには別段人目につくこともなく、内心ホッとした。
ところが、一軒の屋台から果物を買うときになって、すえ

しかし、ここでは坐ってモスクを眺めているところを撮ら
れただけで、楽なことは楽だったが、心はしらじらしくな
るばかりである。

翌日は、もし飛行機が飛ばなければカラコルム・ハイウ
ェイを車で出発することになった。先に記した新しい航路
も二日間客がたまっていたからである。Kさんたち先発隊
がきているのにこの有様で、やはりカラコルムは辺境と呼
んでよい地なのだ。

その夜もHさんと一杯飲んでからベッドに入ったもの
の、やはり寝つかれなかった。まずいととにトランキライ
ザーのたぐいを少量しか持参してこなかった。日本ではそ
れもなしで眠ってしまったし、まして躁病のときに使う強
い薬は鬱病を悪化させるから、もちろん一錠もない。また
スタンドをつけては、ウイスキーに頼るばかりである。

そうして悶々としていると、ついついまたメルバーンの
ことを考える。私たちが帰国してかなり経って、小谷隊長
のところへ隊員一人一人宛ての手紙が一括して届いた。メ
ルバーンはかなりの英語をしゃべるが、文字は読めず、ま
して書けなかったはずである。想像するに、京都隊の行っ
た頃も細い険しい危険な道をジープが二往復くらいしてい
たから、彼はそれでギルギットまで出きて、代書屋に頼
んで書いて貰ったのであろう。隊長から私に送られきた
ものは、ほんの小さな細長い紙片に「アイ・ミス・ユ
(私はあなたを慕う)」とペンで記されたものであった。

1のマイクロバスがギルギット近辺で転落雪故を起したこ
とを読んだ。そのとき私はカラコルム・ハイウェイのこと
など露ほども知らなかった。それゆえ、日本人旅客者は世
界じゅう至るところへ行くなあ、だがあんな危険な道をマ
イクロバスで行くなんて墜落して当然だ、無茶な旅行社も
あるものだなあ、と思わざるを得なかったものだ。

京都隊の先発隊は、物資を運ぶため、カラチからギルギ
ットまでトラックで行った。一面、砂漠の中の道だったそ
うである。それで私もそう予想していた。ところが、一向
に砂漠は現われぬ。その代り、カラコルム地方そっくりの
水分の露ほどもない岩山が現われきた。と思うと、小さ
な滝が崖から流れ落ち、路上を流れ、さながら川のような
箇所を、水しぶきをあげて車が進むこともあった。行きか
うトラック隊はほとんど日本製のものである。また、大落
石の箇所があり、幾台もの中国製のシャベル・カーが岩を
動かし、下の砂地をならしていた。その間、車はずっとス
トップして待っている。大半が平坦なアスファルトで舗装
された道とはいえ、やはり文明国のハイウェイとは雲泥の
差があった。

やがて日が昏れかかった。ベッシャムという所で泊まる
か、夜を徹して走るか問題になったが、結局運転手とガイ
ドの意見により、危険を避けてホテルに宿泊することにし
た。後続のKさんたちの車に乗ったジャベールさんという
ガイドは達者な日本語をしゃべる。のちに彼が日本字まで

ってきてくれた。そのうえ、旅立つ前に私は急に不安にな って、家に残っていた十本ばかりの箱をスーツ・ケースに つめこんだ。そして、自分が撮られて何かしゃべる際には 五分ほど前にそれを飲み、鬱期にもかかわらず何とか忍ん できた。人は笑うだろうが、本当に私はそう信 し て い た し、今でもそう思っている。

だが、インダス河の説明だけでは終らなかった。チラス という場所の巨岩にシャチアールという線画があり、有名 な古い仏跡だという。紙に書いて貰った台詞を石に坐って 覚えとむ。と言って、すぐ撮影は始まらない。マイクロバ スがのろのろと狭S橋を渡り、望遠カメラでも撮るらし く、待機にもテストにも準備がかかる。ようやく私が岩に 向って歩きながら話すのを背後からハンド・カメラで撮 られる。やっと済んでホッとしていると、Hさんたちは相 談したのち、今度は前から撮るという。おそらく私はあか らさまに嫌な顔をしたと思う。Hさんは「背後からだけで なく、途中から前方から撮りたいので」と説明するが、台 詞は初めから全部しゃべってくれと言う。のみならず、フ ィルムの交換か何か知らぬが、なにやかやと時間ばかりが 経つ。私はメルバーンに会うまで何とか元気でいたかった。 それは最後になるはずで、それまでできるだけ体力を消耗 したくなかった。巻期には散歩に出る気力もなく、辛うじ て煙草を買いに行くくらいなのである。そこで私は我知ら

は当然とも言えるが、なにかしらの縁を私は感じ

か前、奥野健男さんの音である百道さんという新進国 家から、単独行で有名な長谷川恒男さんがナンガパルバッ トをやるというので誘われたが、どうしようかと相談を受 けたことがある。ナンガパルバットは過去に最高の犠牲者 を出した、飛行機の窓から見ても背筋がぞくりとするよう なカラコルム一の高山である。そのとき、私はベース・キ ャンプから一歩も出るなと言ったことを覚えている。実際 は百瀬さんはベース・キャンプの周辺をいくらか登ったら しいが、ナジールさんと話をしているうちに、彼もその隊 に同行したことを知った。私は長谷川さんは噂にしか知ら ぬが、いっか小谷隊長と電話で話した折、ナンガパルバッ トを単独で登るのは無謀ではないかと言ったことがある。 そして、この文章を書きだしていくらも経たぬうち、長谷 川さんがカラコルムの未登峰で、とれは単独行 ではな が、雪崩でもう一人の隊員と死亡したという記事を新聞で 読まねばならなかった。ナジールさんもその隊に参加して いたはずである。彼はあちこち忙しくとびまわるので、フ ンザで再会したとき、私は日本隊と他の外国隊との違いを 尋ねてみた。「日本人はリスクを求めすぎる」と、監こそ 濃Sが温厚な顔立ちの彼はそう言った。ナジールさんはか なりの日本隊に参加しているし、奥さんが日本人であるた め、ほとんど不自由なく日本語をしゃべる。いずれにせ よ、山には素人の私ではあるが、山での遭難の報を聞くと 胸が痛む。それがわずかでも私とつながりがある場合は、

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