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なる。かなりの水様便である。旅をしていて何より困るの
は下痢だ。更に困ったのは正露丸しか胃腸薬を持ってこな
かったことだ。Hさんらがロケハンに行くとき、私は以前
の体験からサルファ剤と胃腸薬と目ぐすりはミナピン村の
人々のために持ってゆくよう勧めていた。ところがHさん
の話によると、登山隊のみならずいろんな日本人が訪れる
らしく、或る村人などは箱一杯薬を持っていて、これは何
の薬かと尋ねる有様だったという。そのため彼も胃腸薬を
ちょっとしか持っていない。そう言えば昨日、ギルギッ
に着く前、一台の満員のマイクロバスとすれ違ったとき、
ベイクさんが「オール、ジャパニーズ」と言った。たまた
ま後続のスタッフたちの車に乗っていた日本語の上手なジ
ャベールさんが、そのバスのガイドと親戚であった。訊く
と坊さんの団体で、中国からやってきた由で、仏跡などを
尋ねるツアーだったのであろう。今回の旅では会わなかっ
たが、おそらく一般のツアーもこの地方にかなり来るよう
になっているのであろう。

何回もトイレットへ行き、腹のものを完全に出しておい
て、ギルギットのバザールの撮影。ラワルピンディのそれ
に比べて郎びているものの、これも重複する感じだが致し
方ない。

更にホテルの庭で、ユンケル液を飲み、かつての登山の
思い出を語る。そして、前述したようなメルバーンのこと
を話しているうち、突如激情が襲ってきて、私の顔はゆが

危険な場所には行っていない。だが私にとっては、生選に
一度だけの高所での体験であった。その中で、私なりに苦
労をした。メルバーンと共に一喜一憂してきた。下山する
ときは体力の限界にきていて、普通の坂道で幾度も尻餅を
ついたものだった。そのような特殊な条件の中で、一ヵ月
も一緒に暮したのだから、メルバーンに他にない感情を抱
くのは自然のことであろう。

私が無理を押して、メルバーンに会いに行くのはべつ
に私が親切な人間だからではない。私は自分にとって貴重
な思い出を大切にし、なおそれをふたたび味わいたいだ
けなのだ。優しさというより、むしろエゴイズムに過ぎな
い。

そんなことは、私はとうに承知していた。にもかかわら
ず、メルバーンを語るときに流した涙はどういう訳であろ
うか。私は父に似て、年をとってから怒りっぽくなってき
た。言い変えれば、激情を起し易くなってきた。これは躁
鬱病に関係なく、一種の精神病質と呼んでもよい。そういう
父の悪い点のみが似てきたことを反芻したあと、意味もわ
からぬ疲労のみが残り、私は苦笑する気にもなれなかった。

腹具合は一向によくならない。Hさんもわずかしか薬を
持っていない。すっかり元気になったMさんが、
「これは究極の薬です」

と言って、私の知らぬ胃腸薬をくれた。それも小びんの 底に数錠しか残っていなかったが、「究極の」という言葉

だそうだ。それにフンザには一応ホテルがあるので、撮影 をかねそこを基地にするという。

朝食はふつうのパンとコーヒーだけにした。それなのに
部屋に戻ると、早くも便意をもよおした。それを済ませて
荷物を片づけ終り、念のためもう一度トイレへ行くと、ま
だ水様便が出る。正直に言って、情けない不安な思いであ

る。

道だけはよかった。と言って、ところどころに落石の跡
がある。ガイドのベイクさんについて、Hさんはこう説明
した。
「ほら、彼は河の崖っぷちを見ずに、山側ばかりを見てい
るでしょ。落石に注意してるんです。さすがナジールさん
の弟子だけのことはあります」

その右手の山はかつて見慣れた、露ほどのうるおいのな
S茶褐色の岩山である。左側にはインダス河の上流に当る
ギルギット河が谿底ふかく淀んだ色を見せている。その上
流がフンザ河となるのであろう。

一度、後続の車と打合せのため車は停車した。それは何
かの暗示のようであった。またもや急激に便意を覚えたの
である。

私は左方の斜面を降って行った。ベイクさんが親切に私
の手をとって崩れ易い石だらけの道を導いてくれる。まる
で私は八十歳の老爺のようであった。大きな岩かげで、私
は用を足した。もう胃腸は空っぽだと思っていたのに、か

が並んでいる。

ホテルも立派とは言えないが、まあまあのものであっ
た。前回はミナピン村のラートハウスの土問にシュラーフ
・ザックを並べて雑魚寝をしたものだった。

スタッフたちが遅い昼食をとっている間、私は「今日は
絶食します」と言って、ベッドに横になっていた。なんと
しても下痢を癒さねば、本番に近づいた撮影に支障を来た
すかも知れない。

あれこれ考えながら横になっていると、童顔のMさんが、
「これは油も入っていませんから」

と言って、一皿の白いどろりとしたスープを置いて行っ
てくれた。

それでも、私はすぐそれを食べようとはしなかった。し
かし、疲労が回復してくるとさすがに空腹を覚え、恐る恐
るすすってみた。大丈夫のようだった。

ここは海抜二千二百メートルほどだから、夕刻から急に
冷えてくる。ボーイが部屋に丸型の石油ストーブを持って
きた。

夜には、またHさんにラーメンを作って貰って、一緒に
食べた。電気は十時か十時半に消えてしまう。ストーブを
消してHさんが去ったあと、私はそのストーブを壁際に移
した。夜中に万一トイレットへ行く際ぶつかると危ないと
思ったからである。それまでの人工の暖かさが去ってしま
うと、思ったより寒い。私はもう一つのベッドの掛布団を

前からあるという石造りの廃屋の前へ連れて行かれる。そ とはシルクロードであった。昔から旅人の往来が多く、一 種の茶店のような存在であったらしい。更にその近くの大 家族の食事の光景の撮影。これには準備も入れてもっとも 時間がかかった。

その夜は、スタッフが持参の冷麦の御馳走で、まだいく
らか腹具合の心配な私にはとりわけ有難かった。

次の日、いよいよミナピン村へ出発した。途中で、昔の
ようなボロ・ジープへ乗りかえさせられる。メルバーンは
Hさんの話では、ミナピンより更に奥のミヤチェルという
村に住んでいる。ミナピンまではカラコルム・ハイウェイ
だが、ミヤチェルへの道は狭くて、これまで乗ってきたジ
ーブより大型の日本車では通れないからであった。

またミナピン村では停止せず通過して、直接ミヤチェル
へ行くこととなった。Hさんの意見では人の多いミナビン
に機材を積んだ車でも来れば黒山の人だかりとなり、メル
バーンの耳にもそれが伝わる恐れがあるからだという。し
かし、マイクロバスをどこへ置いて他のスタッフもジーブ
に乗りかえるか、協議するのに時間を喰う。そんなことは
前夜に相談しておいてくれたらと、どうしてもイライラし
てしまう。

ところが、いざミナピンに着いてみると、そこから先の 狭い道には落石があって行けないことが分った。疲労のう えに落胆が大きくおおいかぶさってくる。明後日にはKさ

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