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たかったのに。なによりも、ずっと曇ったもの悲しげな表 情をしたメルバーンに向って、そんな気はとうに失われて いた。

家を出る前、通訳が、
「あなたの髪が白くなったとしきりに言ってましたよ」

と告げた。登山隊に参加した当時、私の髪はまだ黒かっ
たのだ。要するに、メルバーンも私もお互いに齢をとった
ことだけは間違いなかった。

送ってきたメルバーンを、私は家の前でおしとどめた。
しかし、メルバーンは首をふって、そこまで行くという意
を私には分らぬ言葉で呟いて、壁の外までついてきた。

そこで二人はふたたび抱きあった。そのとき何と言った
か、私はもう覚えていない。

畠の中の細道をかなり来て、うしろをふりかえると、メ
ルバーンが同じ場所に立っていた。私は手をあげ、左右に
ふった。メルバーンも手をあげた。

そのいかにももの寂しげな小さな姿が、むろん、このな
んとも心の純な男の見収めになることだけは確かなことで
あった。

ミナビン村に戻った私は、旅のしめくくりの言葉を求め
られた。しかし、心は虚脱して、うつろだった。ようやく
にしてメルバーンと会えた喜びよりも、心身の疲労と後悔
がましいむなしさだけがあとに残った。

けでまた下痢をしてしまうほどであった。

だが、翌日からそれは治った。要するにストレスからき た神経性の下痢だったのだろう。

身体が回復すると、メルバーンとの約束が気になった。
さっそく、古くから知合の医者に電話をした。
「そりゃあ、やはり齢だろう」

と、彼が言った。
「ぼくもそう思う。口説療法くらいしか考えられぬが、ど
ういう薬をやったらいいかな?」
「薬というより栄養剤だね。どうせ貧しい食事しかしてな
いんだろ?カロリーメイトなんかどうかな」
「そうだ。あの辺りの住民は、昔は肉なんか年に二、三度
しか食べないと聞いた。カロリーメイトって奴は名前しか
知らないが、よいのかね」
「うん、かなりいろんな成分が含まれているよ」

私はカロリーメイトを買ってきて成分表を調べてみた。
彼の言うとおり、野菜を主として食べているメルバーンが
栄養をつけ、体力が増せば、或いは念願がかなうかも知れ
ない。医学的に言って、その可能性は低いと言わねばなら
ないが。

一日、編集者が来たので、私はそのことを話した。その
社には英語の達者な人がいるから翻訳してくれることにな
った。

そこで、私はその場で、原稿用紙に乱雑な文句を書きな ぐった。

ルさんの事務所宛に投函した。二、三日のち、カロリーメ イトをとりあえず三十箇発送した。

それらを送ったのは六月中旬で、今は十月も末に近い。
メルバーンの返事はまだ来ない。

たまたま、京都隊の一員ではないが、小谷隊長とも親し
く、私も会っている京都の人からハガキが来た。それに
は、
「小谷さんらと二十六年遅れてタカファリの地を踏み、デ
ィランを眺めることができました。ただ心配したとおり、
パキスタンから出したハガキは一通も届きません」

と記してあった。
パキスタン、ましてカラコルムの郵便事情のわるいこと
は十分に知っている。それにしても、一向に音沙汰のない
のは心配なことに変りがない。

だが、ナジールさんは遭難した長谷川さんのパーティの
一員である。準備から山に入るにしても多忙だったことで
あろう。まして死者を出すと、その後始末が大変なことだ
ろう。まして、ミナピン村まではカラコルム・ハイウェイ
があるが、ミヤチェルまでの道は未だにジープも通れな S
のかも知れない。

それにしても心にかかることには変りがな い。あとしば
らく待って、なお返事が来なかったなら、もう一度便りを
出してみよう。

(了)

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