ページの画像
PDF
ePub

方に対し無礼であらう。結局、包み直して家へ持って帰る より仕方が無いが、持ち帰っての結果は大概分ってみた。 帰宅が多分十一時過ぎ、今夜はもう、誰も食はない。あす お昼にでもいただきませうと言ふのは口先だけで、翌日、 少しかたくなった曲は、家族全員から無視される。殆ど手 つかずのまま、冷蔵庫の中で三、四日滞留の末生ごみと一 緒に捨てられるのが落ちだ。食糧の豊かになる時代まで生 きて亡くなった彼の老母は、晩年、物がさういふ風に始末 されるのを見ると、「今にドバチがあたる」と言った。神 罰仏罰は信じないけれど、彼も、食ひ余しの処置はひどく 気になる方であった。その自分が、「全く、どうして一つ だけと思って手を出すか。鮪の色香に迷うとは」と、独り 苦笑した。貰ったままの折包みなら、紙袋ごと乗務員室へ 持って行って、「車掌さん、失礼だけど」と事情を話し、 受け取ってもらうことも出来たかも知れない。一つ食った あとではそれも駄目だ。

窓外が暮れて来た。列車は東へ東へと走ってみる。月は 出てみないらしく、森も畑も人家も、やがて皆宵闇に包ま れて、窓ガラスが鏡になった。そこへ映る自分の背広ネク タイ姿と向き合って、彼はとつぉいつ、残りの曲を如何に すべきか考へつづけた。そんなに苦に病むくらみなら、S っそデッキへ持って出て、屑物入れに叩き込んで忘れてし まはうかと思ふ。確かに、それが一番すっきりする方法

と、元新聞記者の友人に尋ねたら、「ある」と言はれた。 それなら尚のことだが、何故彼らはああいみ生活に固執す る? 働き手不足の今の世の中、肉体的に少しきついのだ け我慢すれば、仕事はいくらでも見っかるだらう、小ざっ ぱりした衣服と安眠の出来る寝場所ぐらすぐ手に入るは ずちゃないかと、重ねて尋ねる彼に、 「連中が何より欲しいのは、自由なんだ」友人はさら説明 した。「不潔で動作は鈍くて、惚けてあるやうに見える し、事実、相当に痴れ惚けてみる。冬なんか凍死の危険も あるんだが、彼ら自身はあれで結構満足してて、割合せ らしい。家族友人の縁を断ち、親分子分の関係とか、持ち つ持たれつの人間関係を一切捨ててしまふことによって、 何物にも拘束されない絶対の自由を得てるんだから...。 唐手の高段者だつてゐるかも知れないし、調べてみると、 世間で相当な地位を占めてみた人が見つかるやうだよ」

博物館勤務の知人からも、上野の浮浪者について聞かさ れたことがある。東京国立博物館の庭は、もと寛永寺の 寺領で、鬱蒼たる大樹が池をめぐって生ひ繁り、木の間が くれに幾棟か、由緒ある古い茶室が点在してみる。それら の茶室が、予算のっかぬまま、修復不能管理不充分の状態 で荒れるに委せてあった頃、見廻ってみると、時々浮浪者 が上りこんで寝てみたといふ。 「塀を乗り越えて入って来るんです。床下で焚火をして火

ついて言へば、自由を欲しながら、「絶対の自由」とは程 遠いところで七十年間生きて来た。幼にして、したい事を しようとすれば、常に誰かの眼が光ってみた。長して校規 学則、軍隊の規範軍律、結婚して女房の眼、所謂自由業を 志したにも拘らず、口うるさい友人同業者、電話、手紙、 仕事の上の約定、世間とのつき合ひ、成人した子供らへの 遠慮、ありとあらゆる浮世のしがらみに縛られ通しだった と、今更どう致しやうもない悔を感じる。窓の鏡が彼の ネクタイを映してみるが、早い話、此の朱色の布切れ一つ だって、けふのやうな人前へ出る時、何故頭に巻いてるな くてはならぬか、突きつめてみれば、どんな必然性もあり はしない。国の伝統風俗ですらない俗世間の慣習に制約さ れて、自分がそこから逸脱出来ない だけのことだ。

なるほど。ネクタイつけた浮浪者といふのはみない。彼 らはやっぱり、身辺からネクタイに類する物すべてを捨て

人間 坂口安吾 野原一夫

新潮社版

反逆の精神を貫き、戦前、戦中、戦後を駆け抜けた「無頼派 作家」の四十九年の生涯。その波乱と矛盾に満ちた奔放な人 生の魅力と真実をたどる人物評伝。 定価1200円(税込)

記憶がある。
「いよう。それぢやお前、ちょっと此処へ坐れ。俺がその
鮨食ふから、お前も此のチュウ、

どうしたどうした、お前此のおつさんに馬鹿にされたか
と、仲間が声高に寄つて来て、彼は浮浪者の群に囲まれて
しまひ、おまけに地下鉄乗降の野次馬で人だかりが出来上
る。引っ込みもつかないし、弁解するのも癪だし、これは
最悪のケースだ。まあ、そこまで悪い方に考へなくても大
抵大丈夫だらうが、心配なら方針変更、元へ戻して徒然草
の故知に従はうか。
「しやせまし、せずやあらましと思ふ事は、おほやうは、
せぬはよきなり」

尊きひじりの言として、兼好法師がさう書き残しての
る。しかし、徒然流で行くとすれば、結局「ドバチ」のあ
たるやうなことをやらざるを得ない。

列車は大宮を過ぎ、浦和、川口を過ぎ、荒川を渡って、
上野へ近づいてみた。

彼の郷里から近い瀬戸内海大三島の、大山祇神社の神事
に、一人相撲といふものがある。神事に奉仕する家は、
代々決つてみて、世襲の力士と世襲の行司とが、大相撲に
そつくりの土俵を「残った残った」でつとめるのだが、取
る相手は神様だから、どうしても人間の方が負ける。神様
といっても、神社の祭神ではなく、稲の精霊ださうだが、

おやまつみ

行司の軍配さばきよろしく大きな力士が精霊と取り組み、 技をつくしてめつたに勝てない 土俵上の名演技に、島の観 客衆が沸くのだといふ。彼は見たこ

どす黒い顔を上げて、彼の方を見た。蓬髪で、前歯が欠け てみて、両方の犬歯だけのぞかせ、「何ですか」といふゃ うな表情をした。鬼形の面か山姥の絵にそっくりの顔だと 思った。彼は手短かに事情を話し、よかったら食ってくれ ないかといふ意味の二た言三言、早口で言って、紙袋を持 ち上げて見せた。思ひがけないことに、浮浪者は立ち上っ た。ただ立ち上っただけでなく、きちんと、不動の姿勢に 近い姿勢をとった。それから、身体を斜め前へ倒して一礼

「戴きます。有難うございます」

と、両手を差し出して、呆気に取られてゐる 彼の手か ら、飴の袋を受け取った。列車の中で想像したどの場面と も、全くちがうことを浮浪者にやられた。誰かが此の光景 を見てみるかも知れない と思ふと、彼は羞しいやうな気持 になり、「それちゃ」とだけ言ひ残して、踵を返し、銀座

武者小路房子の場合 た| 阪田寛夫

新潮社版

実篤との結婚、「新しき村」の内紛、離婚、そして九十七歳まで 村に棲みつづけた一生を描き、強烈な個性を持った女の数奇な 生涯を浮きぼりにする伝記的小説。 定価1600円(税込)

« 前へ次へ »