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いっそういったことは、 「シモンが勝手にやってしまって、お参りしたいと思って も、お参りのしようがないじゃないの」

と言われないためには、文句のでそうな人を共謀者にし
なければならないし、そのためには立ち会ってもらわねば
なるまい。

遺骨を海に撒くには船がいる。湘南海岸でばらまいたり
すれば、保健所から苦情がでそうだし、岸に打ち上げられ
た遺骨を犬がくわえて遊んでいるのを見つかれば、警察沙
汰になろう。だからやはり船である。

遺族が一人きりなら、伊豆七島航路で、明け方、船が黒
潮の北端にさしかかったころ、闇にまぎれて、海にばらま
くこともできよう。しかし何人かの遺族が海に遺骨を撒く
ために船に乗り、他の乗客に迷惑や不快感をあたえずに、
ロマンチックな行事を行おうとすれば、明け方近く、ある
いは夜にまぎれて甲板に集まることになる。そして島に
ついても、そこに宿泊するか、午後の飛行機の便で帰京し
なければならない。

そんな手数と費用をかけるより、肉親が海辺の墓地に集
合して、帰りは各自で車を運転して帰宅するほうが簡単で
ある。

父は常々、
「おれは死ぬなんてこと考えたこともない」
と言い、知人が亡くなっても、

枚ほどの油絵が遺産ということになる。それから我々子供
として多少とも感傷的な遺品となるのは、数本のバイブだ
ろうか。五年前に脳と頭の手術をした前後三月ほどは、タ
バコどころでなく、バイブは用なしになったのである。

四年前になくなった母が残したものも、数枚の絵であっ
た。絵は母のほうが上手かったし、姉の男にあたる高名な
画家から褒められたことを、母は誇りにしていた。母の生
前、父がパンフレットのような母の画集を作ったのが、今
でも千部ほど残っている。母が生前に、誰か知人が来る
と、半ば強制的に土産として持たせたもので、決して売り
物になる代物ではない。

それでも最初に油絵を試みたという、「三十四歳自画像」
と書かれた作品など、なかなかのものである。背景を暗緑
でざっと塗り、活力と好奇心に満ちたオバサンの表情をよ
くとらえている。襟無しのブラウスのようなものを着てい
る模様だが、肌との境を絵の具をとく油だけで衣類の輪郭
をざっと示し、あとはキャンバスのまま残してあるのも、
気がきいている。

それに較べると、父は若いころから描いていたとかで、
それなりの達者さもあるが、アマチュアとしても、上手い
といえるほどではない。

講義ノートのほうは、戦前と戦後の二度、教師を勤めた 関係でそれが作られた時期前期と後期に分けることがで きる。そして後期

前期は父の四十歳代前半に作られたもの あり、後期は六 力は私にはなかった。また一般的に、戦前的な立場に基づ
十を過ぎてからのものである。比較してみると、人間の考 いて書かれた、六十過ぎの、その世界ではほとんど無名の
えの基礎的なものは、四十代までにほぼできてしまうこと 人の文学についての論述などが、印刷に価すると思うのは
が判る。別に父は講義に手抜きをした訳ではない。私のよ 自惚れである、という気がした。
うにノートも作らずに授業をする者から見れば、誠実によ つまりこのノートは私たち子供にとって、何よりの思い
く準備している。

出だった、という点では、彼が残した油絵と同じであっ
ノートは右の頁に本文を書き、左の頁に引用した書物の
名前や参考にした文章を抜き出して書いている。図を書い 父の生涯、殊に、社会人としての生涯は何であったのだ
た部分もある。

をしたか判るような気が
と言ったことがあった。自費出版同然の形でなら、相談 するのである。
にのってくれそうな会社の心当たりはないではなかった しかしそれは錯覚に過ぎない。そのような肩書の下で、
が、私は聞こえないふりをした。出版界というのは、いろ 彼が実際に自己の知識や技術、何よりも自分の人格を仕事
いろな意味で実力だけの世界であるが、ある著述家が自分. に投影させようとして、どのような実績があったか、そし
の私情で編集者を動かそうとすれば、反感を買うばかりで てどのような成功と挫折を体験したかは判りはしな い ので
なく、バカにされるからである

父は経済観念がなかった。私が中学のころに一緒に旅行 して、宿屋で寝る前にその日のことをメモしようとして、 「今日、タクシーで宿屋まできたでしょ。あの料金、幾ら だった?」

と聞くと、父はひどく不愉快な顔で、
「お前は妙な趣味があるな」

と言ったことがある。
月給の大半は父の小遣いになった。かといって、父は飲
む、打つ、買うとは無縁な人であった。もっとも女性問題
は絶無でなく、父の三十代の終わりころ、これで両親は離
婚してしまうのではないか、と私が不安になったような事
件もあった。

仕事もだらしなかった。雑誌の編集長でありながら、そ
の締切から校了の期間に、取材ということで、カメラマン
と伊豆の旅行に行って会社には出なかったことがあった。
その結果、雑誌は発行が遅れてしまった。発行が遅れると
定期刊行物に与えられている、安い郵税で雑誌を送れると
いう特権が取りあげられる。言ってみれば、雑誌として不
渡り手形を出すようなものである。

この時、すぐにクビにならなかったのは、経営者がよほ
ど親切な人だったのだろう。私が社主だったら、即座にク
ビにする。しかし結局のところ、その事件の一、二年後
に、父はその会社をやめた。

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の過程で簡業者の一族は追放されていった。父。失意
た。しかし私はそういう親を引き取れるようになったい
から、たまたま隣りの地所が売りにでたので、半分買
て、そこに建っていた家も半分残して、両親に住んで。
うことになった。

それからの父は半ば隠居生活であった。学校の教師もし
たし、翻訳した本が出版されることもあった。地方で私大
をはじめた人と知り合い、その人の相談役もした。私は住
まいと光熱費や、食事の時にお惣菜を届けるなどの世話は
見たが、両親はその程度の援助で、どうやら生活してい
た。

十年ほど前、母がもう自分で生活してゆけないから、全
部、面倒を見てくれ、と私に言った時に、私に委ねた臍く
りが、二千二百万円ほどあった。両親の年齢は、八十二、
三歳になっていた。
「へえ、じいさん、ろくに働かなかったわりには、随分、
あるじゃないか」

と私が言うと、母は、
「これだけ貯めるのに、わたしがどれだけ苦労したこと
か」

と忽ち愚痴話がはじまった。
「そうは言っても、その原資はおやじさんの働きだからな
あ」
衣食住といっても、住まいはその古い家があるから問題

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