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なぜ、そのような古い新聞記事を思い出したのか。
記事を読んだ時、清瀬は、役者が旅館を出て船の発着所に
むかって歩いてゆく後姿を思いえがいた。頭髪は白髪で短
く、和服に黒い羽織を着て信玄袋を手にし、と勝手な想像
をした。その後姿が眼の前に浮び出たのだ。

かなりの歳月がたっているが、歌舞伎役者が船上から投
身自殺した出来事は、島の人の記憶に残っているにちがい
ない。その役者が、地味ではあるが名脇役であったと新聞
に報道されたことから、泊った旅館には、本名を記したと
いう宿帳が残されているかも知れない。

清瀬は、行くべき地を見出したように思った。島の旅館
に行き、宿帳を見せてもらう。たとえ宿帳がなくても、役
者が最後の夜をすごした旅館に泊るだけでもその地におも
むく価値はある。

その夜、冷蔵庫から水を出してウイスキーの水割りをつ
くった清瀬は、テレビの画面をながめながら、かすかに頬
がゆるむのを感じた。

妻は、短大時代の友人といつものような長電話をし、時
折り笑い声をあげたりしている。湯からあがった妻は、ネ
グリジェにガウンをまとい、髪にカーラーを巻きつけてい
る。髪に白いものがわずかにみえるが、少し肥え気味の体
の白い肌は艶をおびている。この妻のもとをはなれて一人
だけの時間の中ですごすことができると思うと、拗ねたよ
うな小気味良さをおぼえた。

!

出る必要がある。

かれは、時刻表をマガジンラックにもどすと、洋服箪笥
をあけてタウンウェアーを身につけた。ボストンバッグに
洗面道具を入れると、他に入れるものは思いっかなかっ
た。家にある下着類は、家の臭いがしみついていて持って
ゆく気は起らず、そんなものはどこでも買える。かれは、
ボストンバッグのチャックをしめた。

旅に出ようと思ったのは一ヵ月ほど前で、その時から家
を出る折のことを考えた。旅に出る、とだけ書いた便箋を
食卓の上に残してゆこうか、とも思ったが、そんな必要は
なく、なにも残さぬことにきめた。妻にとって自分は空気
のような存在で、それにふさわしく空気が流れ出るように
家を出てゆけばよいのだ、と思った。

ボストンバッグを手に玄関へ出たかれは、戸締りはして
おかなくてはならぬと考え、二階にあがって窓をしらべ、
階下の庭に面したガラス戸の鍵をしめた。玄関のドアも施
錠し、妻か自分が外出する時 いつもそうするように、庭に
まわると伏せた植木鉢の下に鍵をさし込んだ。

道に出たかれは、駅への道をゆっくり歩いた。道に人の
姿はなく、秋のやわらSだ陽光がひろがっていて、体が清
列で洗われたようなすがすがしい気分だった。

駅に近S銀行に入り、キャッシュカードでまとまった金 をおろして財布におさめた。どこへ行っても思いのままの 額の金を引き出せるそのカードが、殊のほか重宝なものに

残したままの樹木もある。空には薄い雲が浮んでいるだけ
で、景色が驚くほど遊んでみえ、自分の視覚がSっより
冴えているように思えた。

浜松駅を通過した頃から眠り、眼をさますと新神戸駅を
発車するところであった。かれは、東京を遠くはなれたこ
とにくつろいだ気分になって、煙草にライターの火をつけ
た。

岡山駅で下車したかれは、タクシーで港に行き、船に乗
った。瀬戸内海の空も晴れていて、海が陽光に輝い て い
る。かれは甲板に立って、白い海鳥の群れが舞っている遠
い海面を見つめていた。

島の船着場は、華やかな西日につつまれていた。
下船したかれは、船着場の外にある観光案内所に行き、
窓口にいる若い女に歌舞伎役者の名を口にし、投身自殺し
た前日の夜に泊った旅館を教えて欲しい、と言った。

女はわからぬらしく首をかしげたが、奥の机の前に座っ
ていた初老の男が、旅館名を口にして立ってきた。
「島の南側の港に近い所にありますがね」

男はそう言いながらも、なぜ清瀬がその族館の所在地を
知ろうとしているのか、いぶかしそうな眼をした。
「その旅館に泊りた い のですが、部屋がありますでしょう

清瀬が言うと、女は少し笑いをふくんだ眼をして、 「泊れるはずです。きいてみましょうか」

免下さいまし、という声とともに板戸が開き、宿の主人が 入ってきた。

主人がテーブルの向う側に坐り、紫色の風呂敷の包みを といた。多くの新聞記事の切抜きと宿帳が現われた。

主人は、黄ばんだ新聞に宿帳の写真がのっているのを指 でさししめし、宿帳の栞をはさんだ部分を開いてみせた。

他の宿泊者の名は鉛筆で書かれているが、そこだけは書 きなれた筆の文字で住所、氏名、年齢が記され、職業欄は 無職と書かれていた。 「矢立を持っておられましてね、さらさらとお書きになり ました。自殺した後、この宿帳を見に来た新聞社の人が、 遺筆になるので筆で書いたのだろう、と言っていましたが

粗 が

主人は、神妙な表情をして言った。 清瀬の問いに、主人は、役者が旅館に入ってから翌朝出 てゆくまでのことを、何度も繰返して口にしたらしい淀み のない口調で答えた。清瀬が想像していたの とはちがっ て、役者は茶の背広に緑系のネクタイをしめ、その服装か ら歌舞伎役者などとは到底考えられず、矢立を持っている ことから俳句の趣味でも持っているのだろう、と思ったと いう。口数が少く、物静かで、朝食後、革製のボストンバ ッグを手に出ていった。役者が船から身を投げたことは、 警察署員が甲板に置かれていたボストンバッグの中の宿泊 科の領収書から調べに来て、初めて知ったという。

舞伎役者との大きな差だが、 心情には共通したものがあり
そうだ。船の発着所に歩いてゆく役者の後姿は、自分のそ
れでもあるのだろう。

大学を出て会社に入ってから五年ほどたった頃、新しく
入社してきた妻に心をひかれた。明るい性格で良く笑い、
かれは半年間交際の末、婚約し、結婚した。会社と銀行か
ら借りた金で家を購入し、妻は男子と女子を産んだ。

成長した息子は、私立大学を卒業してカメラ会社に入社
し、結婚して大阪に転勤になり、マンション住いをしてい
る。娘も仙台で開業している医師のもとに嫁いで、一人の
女児の母親になり、妻としばしば電話で話し合っている。
息子は時折り上京するらしいが、家にくることはない。

本社に勤務していた頃、清瀬は充実した日々を送ってい
た。机の並ぶ明るく大きい オフィスで、かれは机の前に
って書類を繰り、受話器に耳をあて、上司、同僚、部下と
言葉を交し、訪れてくる人と話し合った。時間が驚くほど
早く経過し、残業することもしばしばで、むろん夜の街に
も出て酒を飲んだ。休日には、取引先の会社の人とゴルフ
場でクラブを振り、時には飛行機や列車で遠出をすること
もあった。

夜、帰宅すると、入浴して居間のソファーに腰をおろ
し、ブランディーのグラスを手にテレビを観、寝室に入
る。四十代の半ばまでは、クラブの女などと関係を持った
こともあるが、それ以後は妻の体を抱くのみで、妻の反応

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