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馬が糧を喰ったあとすぐ脱糞するのは習癖であった。ど の馬もそうだった。醍醐寺でもおなじことが起きた。桜の 下でも脱糞はした。その葉はコッペパンのようで、すぐ山 もりになった。三十ぐらいの山になるころ、 「馬糞清掃ーッ」

と騎馬の軍曹が、鞭を馬にあててやってきた。糞当番は 営舎を出る時からきめられていた。早朝に厩へ入って、ひ と晩じゅうの小水と糞でぬれた寝愛(しき憂のこと)を抱 えて干していた私は、仲間が糞の山を手でかかえるのを見 ておればすんだ。だが、すぐ出発がきそうなので、手つだ ってやらねばならなかった。車輛につんであった延をだし てひろげ、馬葉をそれに入れ、すし巻にしてもち帰るのだ った。営舎の農園で芽をふきかけた芋畑の肥料にするため である。むろん古兵の監視の下でするのだけれど、伊勢出 身の上等兵は私たちが少しでも糞を摑むのをいやがると、 「さいが」「きさま」を連発して私たちを接りつけた。馬は 撲らぬが、兵だけはげるひとだった。それゆえ、私たちの 上着やシャツが馬糞でよくよごれているのは打擲をのがれ る方法でもあった。入隊十日で気づいた上官の前をよぎる 時の作戦だった。延に糞をつつむのにも仲間と汚れを競っ たのである。英片づけがすむと、すぐに「出発1用意ッ」 ときた。兵はいそいで帯剣をしめ、叉銃線の騎銃をといて 肩にかつぎ、荷ごしらえをすませていた馬の絡綱を桜の木

えた。だが、私たちも二頭の馬をひいているのだから、中
間の災難にかかずらう余裕はないのだった。
「敷島」は、栗毛の発琶股を輝かせ、肉づきのよい尻を大
きく左右にふり、頭を垂直にして空に向ってひひーんとな
いた。そうして、二つの輪の車輛もろとも早苗のぎっしり
植わった田へ入れて、苗をなぎ倒しながら先へつき進むの
だった。
「あほんだらッ」

伊勢出身の上等兵が怒った。さらにそのうしろで「馬鹿
者」とか、「気をつけいッ」「阿呆ッ」と軍曹や伍長の叫
ぶ声がした。が、私たちは二頭の持ち馬をひいているの
で、他人事ではない。不幸な仲間に、眼をつぶるしかなか
った。ひたすら「照銀」と「大八州」の手綱をにぎりし
め、水田に溝のようなふかい轍をつけて、馬も兵も小さく
なってゆくのに青ざめるしかなかった。と、この時、私の
眼に、西陽になりかけた空の下の小栗栖山がうすくかげり
はじめるのが望まれ、その手前の一だん高い道路ぎわのあ
ぜに、ソロバンを横倒ししたような看板が眼についた。杉
板かブリキに書いた「野立て」である。
「おぐりすやいと。肩のこり、りょうまちによろし」

小栗栖は いまも「もぐさやいと」のさかんなところであ
る。当時から、もうそんな看板が立っていたのだった。狂
った馬と兵が消えた先はその看板の真下で、早苗田圃が一

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たてがみ

さて、人間の記憶というものは、すぐにうすまるもの で、どうかすると、五十年も前になるこの軸重隊での持ち 馬の顔さえ忘れていることが多い。「照銀」も「大八州」 も栗毛だった。額から顔のまん中にかけてイカの骨みたい な白毛が鼻先へのびていた。両馬とも盛は黒かった。琵琶 股もよくもりあがってびかぴか光っていた。尾も黒かっ た。いわゆる今日の競馬馬のようなスマートさはなかった けれど、腹はゆったりさがって、前肢のつけ根のくびれも そんなに細くなかった気がする。四月から六月まで、約三 ·ヵ月飼育して、調練も終えた馬たちだったが、いまはもう 印象薄くて、顔だちもしっかりおぼえていない。五十年の 歳月というものだろう。重輸卒という名称もそうだけれ ど、特務兵というにしても、馬の尻掃除ばかりしてきた兵 科ゆえ、除隊になっても自慢話があるわけでもなかった。 よく友人の中で、野戦にいた者はとりわけて、手柄話を語 りたがったものだが、私には何もなかった。暑くて辛い毎 日があっただけで、無理に思い出を語れといわれれば、あ の春さきの醍醐小栗栖の早苗田をつきすすんで車輛とも に、見えなくなった兵と狂馬の猛った姿くら い のものであ る。馬卒はなぜか兵役期間を語りたがらない。やがて地方 にもどった友人たちが寡黙になった心のうらを私はいくら か理解できるのである。 だが、その持ち馬の一頭が五十年経って目の前

た。仲間の大半は山中で殺され、重人たちに優われたそう
だが、自分は出島保という二等兵と一しょに伊勢海岸の村
へ逃げて、やがて出島の本籍地である、滋賀県下の農家で
材木を運んで暮らし、戦後は神社の流鶏馬や、時代劇ロケ
ーションがあるたびに狩りだされ、また時代祭の行列にも
出て巴御前をのせたこともあると自慢したあと、いまは能
登の重蔵神社で神馬をつとめているといった。馬が女ずわ
りして、古い話をくり返しはなす顔つきをいま上手にいえ
ない のがもどかしい。長い鼻づらでもあるから時どきぶー
ふーと黒い鼻腔から息を吐いて眼をほそめ、よくしゃべる
のである。私はかなり長い時間を、「照銀」とその日は話
したと思う。馬はそれからちょくちょくくるようになっ
た。

私は導眠剤を呑んで眠るくせがついていた。眠りつけな
いと枕もとのボタンを押して用件をいえば、看護婦さんが
白い錠剤をもってきてくれた。馬は私がその錠剤を呑んで
二、三十分すると必ずあらわれるようになった。やはり、
エレベーターをつかわずに階段からだといっていた。ナー
スルームの眼を盗むのも馴れた、と馬はいった。

よく人は、「臨死ばなし」をしたがる。花畑を見てきた
だの、三途の川をわたりそこねてきただのいって、死ねず
にもどれた一瞬を思いだして話しているようだが、私の場
合は、かなりながいあいだ、軸重隊時代の持ち馬が能登の

トで当直にゆくということだった。身内もかかわっている 病院なら、多少なりとも安心だった。東京の病院もむろん 不足はなく、主治医も看護婦さんもやさしくしてくれたの だけれども、私には薬の副作用と思われる全身サボテンに なったような、脇や股の皮のうすい箇所に、竹のソゲがた つみたいな感触があって、ちくちく痛く感ぜられるので、 主治医にも看護婦さんにも哀訴をくりかえしていたけれ ど、自分にさえ見えぬそのトゲ針が人にわかってもらえる ものでもなかった。悶々するうち不眠症となり、導眠剤も ふえて、薬がふえればまたその分だけ生える針もふえた。 不眠がつづくと目つきも言うこともおかしくなった。頭が 変になったといわれても不思議はなく、時たま、看護婦さ んがノックもせず入ってくると、ちょうどベッドのわきに 馬がきて話しこんでいる時もあったので「馬がいるから気 をつけてくれ」といえば、看護婦さんは「どこにそんな馬 がいますか」と馬鹿にしたようにききかえしたりした。わ たしはもちろん無断で面会者をいれているのだから気をつ かうのであった。そんな日からいっそうナースルームでは 私の頭のことを噂しているのがわかるので、私も人とは話 さなくなり、薬のトゲトゲした副作用からのがれたいの と、気分を一新したい思いも手つだって京都ゆきを決意し たのだった。十一月の半ばに、家人と一しょに横浜から新 幹線にのって、網棚にあった毛布にくるまって京都へつく

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