馬が糧を喰ったあとすぐ脱糞するのは習癖であった。ど の馬もそうだった。醍醐寺でもおなじことが起きた。桜の 下でも脱糞はした。その葉はコッペパンのようで、すぐ山 もりになった。三十ぐらいの山になるころ、 「馬糞清掃ーッ」 と騎馬の軍曹が、鞭を馬にあててやってきた。糞当番は 営舎を出る時からきめられていた。早朝に厩へ入って、ひ と晩じゅうの小水と糞でぬれた寝愛(しき憂のこと)を抱 えて干していた私は、仲間が糞の山を手でかかえるのを見 ておればすんだ。だが、すぐ出発がきそうなので、手つだ ってやらねばならなかった。車輛につんであった延をだし てひろげ、馬葉をそれに入れ、すし巻にしてもち帰るのだ った。営舎の農園で芽をふきかけた芋畑の肥料にするため である。むろん古兵の監視の下でするのだけれど、伊勢出 身の上等兵は私たちが少しでも糞を摑むのをいやがると、 「さいが」「きさま」を連発して私たちを接りつけた。馬は 撲らぬが、兵だけはげるひとだった。それゆえ、私たちの 上着やシャツが馬糞でよくよごれているのは打擲をのがれ る方法でもあった。入隊十日で気づいた上官の前をよぎる 時の作戦だった。延に糞をつつむのにも仲間と汚れを競っ たのである。英片づけがすむと、すぐに「出発1用意ッ」 ときた。兵はいそいで帯剣をしめ、叉銃線の騎銃をといて 肩にかつぎ、荷ごしらえをすませていた馬の絡綱を桜の木 えた。だが、私たちも二頭の馬をひいているのだから、中 伊勢出身の上等兵が怒った。さらにそのうしろで「馬鹿 小栗栖は いまも「もぐさやいと」のさかんなところであ 1 たてがみ さて、人間の記憶というものは、すぐにうすまるもの で、どうかすると、五十年も前になるこの軸重隊での持ち 馬の顔さえ忘れていることが多い。「照銀」も「大八州」 も栗毛だった。額から顔のまん中にかけてイカの骨みたい な白毛が鼻先へのびていた。両馬とも盛は黒かった。琵琶 股もよくもりあがってびかぴか光っていた。尾も黒かっ た。いわゆる今日の競馬馬のようなスマートさはなかった けれど、腹はゆったりさがって、前肢のつけ根のくびれも そんなに細くなかった気がする。四月から六月まで、約三 ·ヵ月飼育して、調練も終えた馬たちだったが、いまはもう 印象薄くて、顔だちもしっかりおぼえていない。五十年の 歳月というものだろう。重輸卒という名称もそうだけれ ど、特務兵というにしても、馬の尻掃除ばかりしてきた兵 科ゆえ、除隊になっても自慢話があるわけでもなかった。 よく友人の中で、野戦にいた者はとりわけて、手柄話を語 りたがったものだが、私には何もなかった。暑くて辛い毎 日があっただけで、無理に思い出を語れといわれれば、あ の春さきの醍醐小栗栖の早苗田をつきすすんで車輛とも に、見えなくなった兵と狂馬の猛った姿くら い のものであ る。馬卒はなぜか兵役期間を語りたがらない。やがて地方 にもどった友人たちが寡黙になった心のうらを私はいくら か理解できるのである。 だが、その持ち馬の一頭が五十年経って目の前 わ た。仲間の大半は山中で殺され、重人たちに優われたそう 私は導眠剤を呑んで眠るくせがついていた。眠りつけな よく人は、「臨死ばなし」をしたがる。花畑を見てきた トで当直にゆくということだった。身内もかかわっている 病院なら、多少なりとも安心だった。東京の病院もむろん 不足はなく、主治医も看護婦さんもやさしくしてくれたの だけれども、私には薬の副作用と思われる全身サボテンに なったような、脇や股の皮のうすい箇所に、竹のソゲがた つみたいな感触があって、ちくちく痛く感ぜられるので、 主治医にも看護婦さんにも哀訴をくりかえしていたけれ ど、自分にさえ見えぬそのトゲ針が人にわかってもらえる ものでもなかった。悶々するうち不眠症となり、導眠剤も ふえて、薬がふえればまたその分だけ生える針もふえた。 不眠がつづくと目つきも言うこともおかしくなった。頭が 変になったといわれても不思議はなく、時たま、看護婦さ んがノックもせず入ってくると、ちょうどベッドのわきに 馬がきて話しこんでいる時もあったので「馬がいるから気 をつけてくれ」といえば、看護婦さんは「どこにそんな馬 がいますか」と馬鹿にしたようにききかえしたりした。わ たしはもちろん無断で面会者をいれているのだから気をつ かうのであった。そんな日からいっそうナースルームでは 私の頭のことを噂しているのがわかるので、私も人とは話 さなくなり、薬のトゲトゲした副作用からのがれたいの と、気分を一新したい思いも手つだって京都ゆきを決意し たのだった。十一月の半ばに、家人と一しょに横浜から新 幹線にのって、網棚にあった毛布にくるまって京都へつく |