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前に置かれた椅子に座った。毎日、午前中に社長を中心に
打合わせがおこなわれたが、絶えず空気が激しく揺れ動い
ていたような本社の雰囲気とは異なった静かな時間が過ぎ
た。社員は忙しそうにしていたが、かれは窓ぎわに立って
ビル街や空をながめていることが多かった。

一年が過ぎた頃から、かれは自分の体の動きがとみに鈍
くなっているのを感じるようになった。歩いていても、中
年の女にさえ追い越され、横断歩道の信号待ちをする人の
中で自分が最も高齢であるのに気づいたりする。帰りの電
車の座席に坐って居眠りをすることもしばしばだった。

そのうちに、朝、出勤する折に満員の電車に乗ることが
苦痛になった。電車が駅についたり発車したりする度に押
し寄せる乗客の圧力に堪えることができず、そのため早目
に起きて、ラッシュアワーになる前の六時半すぎには電車
に乗るのが常になった。朝食は、会社の近くの喫茶店でモ
ーニングセットを口にしてすますが、朝食を家でとらぬの
は、朝早く起きて食事をととのえてくれる雰囲気が妻には
なくなったからで、それは、娘につづいて息子が結婚し、
二人きりの生活になって以来の変化であった。

息子が結婚して半年ほどした頃、妻は、短大時代の友人
たちと北欧へのツアーを申込み、ビザをとったり銀行でト
ラベラーズチェックをつくってもらったりした。かれの諒
解を得た上でのことではなく、すでに旅行に出ることはき
まっていて、友人たちと会ったり電話をし合った」

半月後、帰ってきた妻は上機嫌で、電話で友人に旅の印 象をったえたり、旅の疲れもないらしく外出したりしてS た。 かれには、土産だと言って高級ブランデ

*1を二本、 食卓の上に置いた。

出向した会社の定年の時期が来て、さらに三年間、顧問
として残るのが慣例に近いものになっていたが、かれは社
を去ることをつたえた。これと言って仕事もないのに、未
練がましく会社に関わりをもつのが潔くないように思えた
からであった。それに、たとえ毎日でなくても会社への往
き帰りに電車に乗ることを思うと気分が重苦しくなった。
若い頃から仕事に明け暮れしてきた疲労の積み重ねが、一
時に体にのしかかってきたような感じであった。

会社では思留の姿勢をとったが、それは決して熱心なも
のではなく、かれの意向はうけ入れられ、退社記念として
典雅な音色で時を打つ柱時計が渡され、退職金が預金口座
に振込まれた。
かれは、家で日をすごすようになった。

妻は、またも海外ツアーを申込んでいて、カナダへ出掛
けていった。

その留守中、かれは食事を三食とお外ですませて い た が、駅の近くのデパートの地下売場で眼にしたインスタン トの卵の袋を買ってきて、袋に記された指示にしたがって つくり、朝食をとった。想像以上にうまく、かれはインス タントの味哨汁も買って、毎朝、それを口にすることを繰

がうかんでいた。

かれは、身じろぎもしなかった。卑屈感が胸にみち、妻 のかたわらに身を横たえている自分が愚しく思えた。

やがて、かれは足をずらせて床におろし、ベッドをはな
れた。

それまで月に二、三度は妻の体を抱き、妻の反応はきわ
めて淡かったものの、かれは一応男としての満足感をおぼ
えていた。そのような接触が年を追うごとに稀になってゆ
くとは予想していたが、それが完全に断たれたことを知っ
た。

その日から妻が、自分にはなんのゆかりもな い 人間に感
じられるようになった。同じ家で寝起きし食事を共にする
が、ただ一人の女が眼の前にいるのを意識するだけであっ
た。距離を置いてながめてみると、七歳下の妻は、五十代
後半になっていながら四十代の女のように体の動きがきび
きびしていて、声に張りがあり笑い声も甲高い。その明る
S逞しさが、かれには堪えがたいほど眩しいものに感じら
れた。

妻は、短大時代の友人以外に行きつけの美容院の客たち
とも親しくなっていて、二、三泊の国内旅行に出掛けるこ
ともある。家にそれらの女たちが集って、仕出しの弁当で
昼食をとりながら、なにが可笑しいのか息をあえがせて笑
い合う。辟易したかれは、ひそかに外に出て夕方まで歩き
まわった。

食事をすませたかれは、少しの間、茶を飲んだりして坐 っていたが、なすことないので腰をあげ、旅館を出た。

船の発着所の方へ歩いてゆくと、左手に喫茶店が見え、
かれはドアを押した。客はなく、道路に面した席に腰をお
ろした。

コーヒーカッブにミルクを入れながら、どこへ行ってみ
ようか、と思った。船に乗って島から島へ渡ってゆくのも
良い かち知れない。岡山へ引返す気はなく、四国へ渡って
みようか、とも思った。東京に近づくととだけはしたくな
かった。

窓の外に朱色の小型車がとまり、夫婦らしい男女が入っ
てきて、入口に近い席に向い合って坐った。茶色いハンチ
ングをとった男の頭髪は乏しく、派手な服に青みをおびた
眼鏡をかけた女の髪は白い。二人とも自分と同年齢ぐらい
にみえた。

女は、コーヒーを飲みながら五十年輩の店主と言葉を交
した。四日間、車で旅をし、今、フェリーで島についた
が、紅葉の名所の色づき具合はどうか、とたずねた。
「冷夏でしたので今年は駄目だと言われていましたが、心
配していたほどではないようです。ただし、もう終りに近
くなっています」
店主は、窓の方に眼をむけながら答えた。

男が、道路マップを手にその名所への道を店主にたず ね、店主は指先を動かして説明した。

は、その道に入っていった。車の走る音が遠くなり、あた りに静寂がひろがった。

道が右手に曲っていて、曲り角で足をとめた。前方が明
るく開けていて、畠をへだてて丘陵がみえる。斜面が黄、
朱の色におおわれ、その彩りを眼にしただけでも道をたど
ってきた甲斐があった、と思った。

光るものが、眼にふれた。丘陵の麓のくぼみに霊柩車が
とまり、その後ろに薄い青色のマイクロバスと三台の乗用
車がみえる。霊柩車の後部から白いがおろされ、黒い服
を着た者たちがそれを支えて傾斜した道をのぼってゆく。
その前方に、鉛筆の芯のような細い煙突がみえ、焼場があ
るのを知った。

半年ほど前、妻と居間で向き合って坐っていた夜のこと
が、ほろ苦く胸によみがえった。

その日、建築会社を経営していた妻の叔父の葬儀が営ま
れたが、在社中、盛大な葬儀に何度か参列したことのある
清瀬にも、それらとは異なった雰囲気が感じられた。

葬祭場には驚くほど多くの花輪と生花が並び、祭壇は見
たこともない豪華なもので、祭場の入口には水の飛沫を散
らせてまわる大きな水車が置かれていた。葬儀が終り、霊
柩車に核がおさめられると、おびただしい数の白い鳩が放
たれ、その羽音が祭場の敷地にみちた。その中を霊柩車が
動き、ハイヤーの列がそれにつづいて門を出た。

をこらした葬儀 終戦直後、肺結核で病臥 て死んだ

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