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「いや。今夜の芝居は終ったんだ」伊吹は杉村に説明しは
しめた。「いいかね。芝居の物語というのは多層性を持っ
ている。演じられつつある物語、役者たちの物語、舞台
の、あるいは楽屋の物語、その他いろいろだ。この芝居の
場合、演じられている物語よりも中原伊助の物語の方が重
要で、今まで前景化されてきた」

早くも伊吹の言わんとするところをのみこんだ大川が頷
き、舞台から遺体を運び去ろうとしている道具方数人のと
ころへ行って制止した。

舞台袖では興奮気味の伊吹が、まだ杉村に喋り続けてい
る。「中原さんの死で、この芝居は終った。なぜかと い う
と今夜の芝居は中原伊助の死という芝居になってしまった
からだ。そんな芝居にとって、第四幕なんか余計な芝居な
んだ」
「ご挨拶、お願いしますよね」大川が戻ってきて伊吹にそ
う購き、楽屋放送のマイクを手にした。「えー、役者の皆
さんに申しあげます。今夜の公演はこれで終了します。第
四幕はありません。くり返します。第四幕はありません。
では、カーテンコール、まいります。全員ただちに舞台へ
集合してください」

(了)

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*ギョの美ちぶ屋さ、けてきている”音楽られる
までここにいられるかどうか、わからない。自分の意志だ
けではどうにもならない事情が、わたしにもある。でも
たしはだんだんここが好きになり、ずっと住んでいたいよ
うな気持ちも生まれている。

ここは、大きな道路に面したマンションの五階。窓は東
に向いている。北側も、東西に走る道路に面している。車
の量は夜も昼も多いが、風の音のように聞こえるので、あ
まり気にならない。ここは人の声が聞こえなくていい。

誰でもいいから、わたしの話を聞いてもらいたい。誰か
が聞いてくれていると思えば、張り合いも出る。不平や人
の悪口をいわないと約束してもいい。

わたしは以前のわたしではなく、生まれ変わろうとして
いるのだ。多分、そんなにひどいことはいわなくてすむ、
と思う。こんなふうに切実に話がした S と思ったのは、生
まれてはじめてのような気がする。

以前、わたしは夫に顔も見たくないし声も聞きたくない
といわれたことがある。わたしは結婚していたが、夫とう
まくいかなかった。恋とまでは S かなくても、お互いに気
に入っていっしょになったはずなのに、時間がたつと慣れ
るどころか反対にぎくしゃくしてきた。考えや感じ方が一
致したことがなく、合わせようという意欲がわいてこなか
った。
それでも面と向かってそういわれたことはショックだっ

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いらし、またひどいヒステリーの発作を起こした。うまく
いかなければ いかないほど、わたしは自分のいやな性格に
直面することになった。

それまで自分では、自衛の本能が人よりいくらか強く、
傷つきやすいのだと勝手に思っていた。だが実際には、都
合が悪くなると傷つく前に人を傷つけようとする、自己中
心的なだけの人間だったのかもしれない。

たしかにわたしは、子供のころから、何かまずいことを
しでかしたあと、ごまかして逃げるのがうまかったような
気がする。でもそれを助長したのは夫との生活だ。

わたしは夫と暮らすうちに、だんだん自分が嫌いにな
り、そのことで夫を嫌いになった。恋人をつくった こと
は、うまくいえないが、夫以外の男とつきあってみたかっ
ただけのような気もするのだ。その人は、問題がこじれて
から、わたしとのつきあいにうんざりしてこういった。

たなな
利用したのか」

どこかで聞いたようなせりふだったが、

たが、そういう月並み な人だったし、その人の いったことは正しかったのだ。わ たしはその月並みな言葉に図星をさされて、その人とも別 れることになった。 でも、そういわれなかったら、ずっとそのことに気がつ かなかったかもしれない。わたしはその人のことが本当に 好きだと錯覚していたのだから。

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ることができなかった。

ありがたいことに、ここでひとりでゆっくり過ごしてい
る間に、体のあちこちでいろいろな緊張がほどけて いっ
た。季節が移ろって、冬に張った水が春には溶けるよう
に、わたしを取り巻く時間そのものがゆるんでいく感じが
あった。深く静かに呼吸できるようになり、ものを睨むの
でなく、じっと正視することができるようになった。

いろいろなことが正常に戻っていったのだった。
退屈や好奇心の虫が帰ってきた。さまざまなことが気に
なりだした。とくに、自分のことが。

わたしはある日、洗面所の湯気で曇った鏡を見ながら、
自分に話しかけていた。ほかに話しかける相手がいなかっ
たからだ。しばらく鏡を見る習慣もなくしていた。自分の
顔を見つめ、自分の言葉に耳を傾けるなんて、ずいぶんお
かしなことだと思いながら、やめることができなかった。
わたしは、知らない女と顔を見合わせているような気がし
たのだ。知らない女に話しかけ、知らない女の話を聞く。
そんな感じだった。
この魂の抜けたような顔の女は誰なのだろう?
わたしは鏡のなかの自分の顔を見て、突然長い眠りから
覚めたように、そう思ったのだった。だが頭のなかはジャ
ングルのように見通しが悪くなっていて、簡単なことをひ
とつ考えるにもひどく骨がおれ、時間がかかった。
しかしその話はもう打ち切ろう。どうせ一人で考えてい

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