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分だけ気性は激しかった。平塚は煙草を忙しく吸いなが
ら、うんうんとうなずいていた。色白の優男だった。ずり
落ちてくる眼鏡を神経質におさえている。

わたしは、二人に礼を言った。いまさら帰れるはずはな
かった。なんとかなるだろう、と答えた。財津浩人は、わ
たしの返事が気に入らないようだった。わたしたちは立ち
話で別れた。それが財津と会う最後の日になった。彼はま
もなく死んだ。取材先の岡山で、列車から転落した。事故
だったが、自殺だという説もあった。奥さんと小さな子供
が残された。一方、平塚雅昭は独立して、フリーのライタ
1になった。大変だと思うが芯の強いところがあって、い
までも元気にやっている。つい先頃に会っている。

入社した頃、会社は新宗連黎明会会長日置正義の『大乗
仏典講釈』全十巻の刊行をはじめていた。これは一般書店
には出ない本だった。黎明会が買い取って、信者が読者に
なる。これが会社の財源だった。毎年二巻ずつ出版をす
る。完結までに五年間ある。それまでに出版社としての基
礎をかためる。それが新聞記者あがりの社長大館通明の腹
づもりだった。わたしは仏教の勉強をしようとしていた。
臼井勤介の『唯識論研究』、『大乗起信論』、平楽寺版の
『法華経』などを読んでいた。よく分からなかった。キリ
スト教関係なら、すこしは楽に分け入っていくことが出来
ただろう。仏教では勝手が分からなかった。
『大乗仏典講釈』の校正をすることになった。第一巻は発

費を集めて、次第に動きはじめた。しかし、大館通明社長 の夢は、結局のところ充分にふくらまなかった。いろいろ 曲折があった。この社長は去年になって、突然に亡くなっ ている。食後にケーキを食べ、気管に詰った。救急車が間 にあわなかった。わたしは会社を離れて歳月が過ぎ、大館 社長の消息を人伝えに聞くだけだった。葬儀も知らなかっ た。死んだという話を聞いて残念に思った。自分の二十 七、八の時代を失ったような気がした。

アルバムのあちらこちらを操ってみたが、会社関係の写 真は一枚もない。社員旅行の写真もなかった。入社した翌 年の冬には、苗場へスキーに出かけている。写真を撮って いるはずだが、アルバムには残されていなかった。わざわ ざ気をつかって、消滅させたように思われるほどだった。 わたしは早や自分の記憶が薄れかけているのに気が付い た。思い出そうとすると、細部が消えている。わたしはア ルバムを閉じ、お酒を飲むことにした。ウイスキーの水割 りをつくった。今日は遠出をして歩いたから、よく眠れる だろうと思った。気持がほぐれたなら、もっと思い出すこ ともあるだろうとあてもなく考えていたが、これはやはり 無駄のようだった。そのかわりぼんやりしていると、妻が 不意に言った。お給料が少なくて、泣いたことがありまし たね、と言って笑う。これには覚えがあった。前借をし た。飲み屋のツケを払うと、給料は半分になった。妻が泣 いた。どのようにして埋め合わせたか、は妻もわたしも覚

わたしは不機嫌な顔をして、起き出した。食欲がまるで
無い。昨日の黒玉子をひとつと梅干しだけの朝食をすませ
た。黙っていたのに、何を思ったのだろう。妻は父の形見
分けの万古の急須で茶をいれた。むっつりしているわけに
もいかない。父の夢を見た、とだけ言った。妻はうなずい
て、祭壇のロウソクに火をともした。灯を見ていて、母に
電話をしようと思った。五年前に父は八十一歳で死んだ。
母は大阪市の郊外の国島台で、兄夫婦と暮らしている。こ
こ暫く葉書も手紙も出していなかった。電話もしな い で過
ごしてきた。母からも便りがない。ご機嫌うかがいの電話
をかけて、おかしくはない。それでも午前中はさけたほう
がいい、と思った。

午後の二時になって、電話をかけた。電話口に出てきた
母は、元気だった。父の夢で母が気になったから電話をし
たわけだが、その話はしたくなかった。朗らかな夢ではな
い。あたりさわりのない話をしていると、母が声をひそめ
た。変な話をしていいかい、と言う。いいよ、と返事をす
ると話しだした。

夜なかにふと眼が醒めてみると、三時半だった。ところ
が応接間に灯がついている。誰が起きているのだろう。そ
れとも消し忘れているのならもったいない。そう思って、
応接間へ行くと、父が茶色のスーツを着て、靴をはいたま
ま頭を北、足を南にして眠っている。それで、お父さん、
だめし

の。風邪を引くから、と言って引き起こそう

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てしまった。いまになって帰ってきたく。 たのだろう か。来年は七回忌である。

泰山木の花がひらくように、六月の晴れた夕刻がきた。 駅前通りの書店へ出かけた。頼んでおいた本が届いてい た。そのまま家へ帰りかけて、思い出した。駅前へ行って みると、あのストリートオルガンの青年はいなかった。に ぎやかな哀しみとでもいった音楽とともに、青年はどこか へ行った。多分、帽子がコインで一杯になるところを探し に行ったのだろう。

冬の梅 芝木好子

新潮社版

永遠の別れが間近いのなら心の支度 新 をしたい――五十年の歳月を共に歩 んだ夫婦が、生の証と華やぎを求め て辿る旅の日々を描く連作など五編。 最後の作品集。定価1800円(税込)

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