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酒を、こすったらしかった。

門の前に母親が待っていた。絶え間なくやってくる怪我
人を、母親はてきぱきとさばいている。Aをみると、母親
は駆け寄ってきた。女を抱きかかえるように受け取って、
早くおとうさまに診てもらって、と泣き声でいった。看護
婦が、母親から女を抱き取る。母親の白い割芸着の袖口や
胸に、血がついている。被爆者たちを幾十人、門に立って
抱き留めてきたのか。看護婦たちの白衣も、血で黒ずんでい
る。リヤカーをひいた村人が、怪我人を迎えに走っていく。

山の奥の、開業医の診療室にまで溢れている怪我人をみ
て、Aは呆然と立っていた。渦中にいながら、これほどの
大事になっていようとは、考えてもいなかった。

原子爆弾の威力を、わたしたちほとんどの市民が、知ら
なかった。この場さえ逃れれば、いつもの山川と家が並
ぶ、懐しい風景に出逢える、と思っていた。しかし逃げる
先々に被爆者はいた。人も家並みも消えて、平坦な地に変
ってしまった爆心地よりも、目に映る情景は悲惨をきわめ
ていた。台風の目の周辺のように、村は、怪我人で荒れ狂
っていた。Aは、手足に負ったかすり傷の消毒を済ませる
と、風呂場で行水をした。湯浴みが先でしょう、傷の手当
はその後でしてもらいなさらんばねえ、と祖母がいった。
祖母が揃えてくれたゆかたに着換えると、Aは眠った。サ
イレンが幾度も鳴った。防空壕に逃げる者は、いなかっ
た。手足が動く者は怪我人を看、被爆者たちには逃げろ気

を詰めて、(いま雷と地震です、切りますね〉と受話器を A Sた。相手のない受話器をわたしは、暫く耳に当ててい た。御山の地鳴りがAの家を震わせ、受話器を震わせて、 震動をわたしに伝えてくるのではないか、と待った。

知らないで通りすぎたこととは、どんな事柄だろう。

年を経ると、生活の範囲内の出来ごとは、だいたい把握
している。自分の知恵の法を越えなS理解だが、わたしは
それより深く、求めたいとは考えない。わたしに考えられ
る出来ごとの半分は、体験済みであり、あとの半分は霊性
の域に入るようで、まあ無縁といおうか。

若い年ごろには、鼻っ先にさげられた事々まで見逃し
て、過ぎてしまって、ああ、と手を打って口惜しい思いを
することがあった。

子供の発病の兆し。恋する人の心離れ。男と女の愛のは
じまりのとき。

もうむかし、おたがいに女学生だったころのことを、A と話したことがあった。少女時代と変らないおおような口 調で、動員中に男性から手紙もらいましたよ、とAが いっ た。初恋の思いを掻き立てるにふさわしい、清純な女学生 だったから、恋文をもらって不思議はなかった。残念なが らわたしは、ただの一度も、恋文なるものを手渡されたこ とがない。うらやましい、とわたしはいった。もらいまし たけどね、その手紙がどんな意味をもつのか判らないんで

の汽車通学生がいる。友達の面前で逢うのは気がひけるの で、Aは、早めにその日家を出て、駅に向かった。顔を知 らない学生の手紙に、Aはなぜか心惹かれたのである。改 札口の付近を歩いていると、学帽をかぶった青年がAを呼 んだ。手紙の相手で、これから裁判を受けにいきます、と 学生はいった。黒縁のまるい眼鏡をかけた学生は、数ヵ月 前に終わった戦争の、戦犯容疑をかけられている。捕虜た ちと接触する職場にいたので、嫌疑を受けたようだ。捕虜 に対して非道な仕打ちをした記憶はないが、呼び出された 以上、誰かが彼を訴えたのだろう。声高な日本語も、異国 の人には精神的虐待になる。これから出頭します、その前 に逢っていただきたかったのです、と学生はいった。学帽 を脱いで目礼する手の甲に、赤い火傷のひきつれがある。 学生は被爆者のようだった。戦争犯罪容疑と、戦争被害者 の二重の苦を負わされた学生は、幸福でいてください、と Sって去っていった。Aは、寒い風が吹くホームに立っ て、線路沿 S の田舎道を歩いていく黒い服の学生を、見送 った。学生との会話はその時が最初で、最後である。A は、学生のその後を知らない。連絡がないのをみると、罪 に問われたのだろう。BC級戦犯の裁判が、横浜などの地 裁で行われていた時代である。話を聞いたわたしは、すて き、といった。すてきですか、とAが反問した。

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ざまに変わる可能性を極めた人生の岐れ道を測している うちに、雷と地鏝で中断した八月九日の話を、

Aは手紙に 書いてよこした。

一方的に電話を切ってしまって、無礼をおゆるしく ださいませ。雷も地震も、養光りを放つものと轟音は好み ません。じっと息を殺してお山の静まるのを待っておりま した。降灰でしょう、小雪が降る日の林のようにさらさら 音がして、のぞきますと庭は雪景色ならぬ灰景色です。人 に緑が必要であることをしみじみ思います。なんてんや八 っ手の葉に積んだ灰をみています。そしてやはり八月九日 に行き着きますと書きはじめにあった。

渡して去った、学生のことだろうか――。学生の心を

目醒めたとき、座敷の襖は取り払われていた。建具のな い座敷は柱が目立って、さながら夏の海辺の、桟敷であ る。爆風だろうか、廊下のガラス戸が割れていた。この村 は、爆心地に背を向けて山がある。山が遮蔽物になって、 爆風は避けられたはずだった。が村のあちこちで瓦がはが されて、白壁に穴があいていた。

Aは醒めきらない目で、座敷を見廻した。昨日の夕方、 一人で眠ったはずの座敷に、隙間なく布団が敷いてある。 Aの家の客布団である。その上に、祖父母や両親のゆか たを着た被爆者たちが、身を寄せあって横たわっている。 Aのゆかたを着た少女もいる。焼け焦げて、衣服の役をな さなくなった者たちに、家族の衣類を着せているのだ。見

を刺して、二重の傷をつけている。幼児と男は、それでも
幸運なほうだった。爆心地にいた人びとは、三千度四千度
の高温に襲われて蒸発してしまい、ガラスは溶けて、醜悪
な塊に姿を変えていた。

Aは、男の脇腹の辺りに正座した。そして、背中のガ
ラスの頭を、ピンセットでつまんだ。ガラスは、簡単に抜
けた。一つ二つ、と五十個まで数えた。ピンセットが滑っ
て抜けないガラスは、指で抜いた。抜き損なっても、男は
痛みを訴えない。心細くなって、Aは父親をみる。様子を
窺っていた父親は、新しい怪我人を運んできた母親に、代
るように いった。

Aは庭に出た。目まいと吐気がした。収容された被爆者
たちの吐瀉物で、庭に悪臭がこもっている。そこに死者が
運び出される。最初の死者は、さっきまでガラスを抜いて
やっていた、男だった。男はタンカに乗せられて、村の寺
に運ばれていった。

――この男性が人であるのを忘れようと努めました。ガ
ラスが物質なら寝ている男性も物と考えるように自分を仕
向けました。作業はスムーズでした。助かって欲しい、と
命の手応を確かめつつ事務的にも処理する、二面をこなせ
る少女になっていたようです。ときに魂の離反を感じるの
は、そのためなのでしょうか。祖父母や両親は大人です
し、祖父と父は医者でもありますから人を人として愛情こ
めて診られる、修羅場でも命を見つめて、相対出来るので

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