りようが見てみたくなった。三日がかりで昔にあったと思 える道を歩いた。伏見墨染までタクシーで行き、そこから 徒歩で桃山御陵のうらの大亀谷をぬけ、小栗栖の切通しへ 出て、三宝院にいたる畷道のあとち歩いた。 伏見墨染の旧軸重隊跡には、住宅や学校や官公の建物が 混在していた。とてもそこにむかし二百頭以上の馬が住 み、三百人は い たろう軸重兵の営舎や営庭があったなど考 えられないぐらいに家が建て込んでいて、辛うじて名残り のあるのは、京阪電車に沿った「師団街道」をはさむ商店 街だった。だが、それも、墨染駅から奈良線に向う途中 に教育大学の校舎やグラウンドが出来ているので、昔の鄙 びた町家は、街道筋にわずか残るだけで高みはみな新しい 住宅地に変っている。大石内蔵助が遊興したといわれた撞 木町も、深草練兵場を貫いていた両替町通りだっ そうだ から、むろん、そんな遊廓の面影はいまだってない。旧師 団前から、大亀谷を東へ入るとまなしに商店街の中に墨染 寺の小さな門があって、馬をつれて歩いた日も寺内に大き な桜が枝を張っていたのをぼんやりおぼえていたが、当時 の町家はみな屋根も低かったので、練兵場からも四月は桜 が目立ったのだろう。私は、山根さんと一しょに墨染寺の 前から、小栗栖へ歩いたのだが、その途中の坂道に二本の 山柿が昔の枝ぶりをみせて、鈴なりの果をたわめていたの た。私はその柿の下へいって、 山根さんが待ちどおしがるほど木を撫でて、このあたり で、たぶん馬の小休止だったかもしれぬ、と思った。小休 止は馬に水をやるだけだった。たぶん、農家の裏木戸をあ けてポンプ井戸をみつけて、走りこんで をのぼりつめると、安芸山へさしかか った。むろん、このあたり昔は山峡道だったはずだが、い まは両側に住宅や商店の建てこむバス道路なのでゆく先は 醍醐の六地蔵である。安芸山の丁字路へくると、やけに古 い農家ふうの家が一、二戸あった。また水田へ下る切通し の左側にも石段をもつ昔なら素封家らしいたたずまいの家 があった。こんな家の前にくると心がなごんだ。馬をひい て、坂を下る隊列の先頭は、山科川をわたって、脇道に入 る。その光景が幻のようにうかんで、真向 い の空は、すぐ に醍醐山だ。南は炭山、北は端山だ。上醍醐はずんぐりと まるくたかまっているから、峰は茶碗を伏せたようで、南 へゆくにしたがって低まって、宇治川へ落ちるのであっ た。私は 。たしかに、上醍醐から、下醍醐にかけて冬近 い山のこまかい髪はみな紅葉していて、赤い毛糸束でもち らしたようで、山の厳は赤かったり、黒かったりして美し いのだった。その足で、私は「おぐりすやSと」の看板の あった方へ山根さんにたのんで案内してもらった。勧修寺 の方角へ少し歩いた先であった。北御藤町と標識に書いて あったが、小栗栖の団地をすぎ、山科川に沿って北へ少し 行った先の斜面台地に「おぐりす灸寺本」と看板をたてた 旧家があった。農家造りの二階家で、昔は作業小舎だった ろうと思われる大家が切妻の白壁を表にみせて、奥へのび ていた。本家は直角に北向きにひろくとられていて、こん な段丘に灸の本舗があって、あぜ道に看板が立っていたな どというくわしい記憶はなかったが、神岡二等兵が、くせ 馬の「敷島」にひきずられて、車輛もろとも泥んこで小さ くなったのはこの炎本舗の真下だったろうか。とすれば、 山科川の土堤のあたりである。神岡と狂馬は土堤にきて立 往生したものか、それとも村につき当たって誰かに助けて もらったか。戦友たちに助け出されて墨染の軍病院 は、私の胴ぐらいの根の太さのが、何本かあって、五重塔 の方にまで、先すぼまりに、枝をたわめて道にたれている のだけれど、むろん、この日も十二月なので、花はなく、 ところどころに紅かったり黄色かったりするよごれ葉をの こした枝が、針のようにとがって天にひろがっているばか りだった。 「ここらあたりに馬をつないだんですよ」 と、思わず私は山根さんにいってしまった。 と山根さんはいったあとで口ごもった。私が戦争中に、 といってうなずいてくれた。私は、その兵科がいかに辛 といい、 とわらった。山根さんのアパートはそんな低地にあるら 私が醍醐の愛仁会病院を出て、東京品川のK病院にうつ 年の二月二十七日だが、まだ秀吉は病気ではなく、つけひ げをつけ、眉も描き、お歯黒までして吉野へ出かけたと書 いてある。 吉野山こずゑのはなのいろくにおどろかれぬる雪のあ けぼの と歌も詠んだし、この時はまだ関白秀次も同行してい て、一家団欒のなかで秀次も、 芳野山誰とむるとはなけれどもとよひもはなのかげにや どらん と返している。山上で歌会をもよおした時にも、秀吉は ご機嫌で、 紅葉せぬ松の葉ごしの花のいろに家路わすれて千代ちへ と詠み、子の秀次は、 と返したという。父子はいともなごやかである。だが、 |