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る。いまは生きているか、死んでいるかわからない大の 仲間のこともむろんかさなるのだけれど、とりわけて、任 った馬にひきずられて、綱を両手でもったまま泥んこで水 田へ消えていった神岡二等兵の顔は、淋しく思いかえされ

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ところで、私はわがままに病院を出てしまって、東京へ
帰ったのだが、以前に半年ばかり入っていた品川五反田の
病院に入ったのだった。かねてから診てもらっていた循環
器外科のT医師に、三分の二も壊死してしまっている心臓
のその後の回復について、指導も仰いで、多量の薬剤の副
作用とも思われるサボテンに針が生じるような感覚を消滅
させたいことと、不眠症からの克服を願ったのであった。
正月に入って、京都の山根つるさんと平田ょし子さんから
手紙が届いた。山根さんのは彼女が「トドさん」とよんで
いるお母さんの容態も少しよくなってきたので、付ききり
の看護は不要になったとあり、週に一、二どS病院の工事
中のリハビリセンターの雑用を手伝っている、と書いてあ
った。また、平田さんのは、春がきたら醍醐へ来てくれ
一しょに花を見ましょう、と書いてあった。

私は正月すぎからなぜか極度に体重が減った。京都では
よく歩いたので、足首や膝うらに筋肉をつけてもどってい
て、T医師もほめてくれたほどだったが、入院一週間目ご
ろから、食事がまずくなり、一日一キロずつの減量で、看

付添うた病人につかまってしまって、気前のいい人ゆえ、
家のことまで何やかやひきうけてやってあげているのかも
しれない。

少しでも陽気がよくなったら、京都へゆかせてくれるよ
うに主治医にもたのんであった。いいあんばいに二月十五
日ごろから減量がとまった。朝六時から、ひょろつきなが
らであったが、暖房のとどいている四階廊下の壁に手をす
って歩行をはじめると、日を追って腰に力も入り、階段も
降りられるようになった。一、二階まで降りて、他の病棟
まで散歩もできた。すると肉もつき、少しずつ体重がふえ
る。万歩計をベルトに、一日百回も足をあげてはおろす体
操もしたが、食事もうまくなるとしわばんでいた下腹が、
少しずつ張ってきて、皮に艶がでたのもうれしかった。

三月もすぎていって、四月に入ってまもなく、品川の桜
もほころびはじめた。私の病室は四階の角にあったので、
視線の高さに、周りの池田山ゃ、芝白金の高台屋敷にある
大桜の、もりあげたように花がむらがるのがみえた。もち
ろん京都へゆきたくなった。そこで、主治医に相談したと
ころ、醍醐の病院ならば知った医師もいるしリハビリセン
ターもあることだから、と長期の外泊をゆるしてもらえ
た。病院の主治医が長期外泊をゆるすのは退院脱走をゆる
されたようなものであった。
私はまだ風邪がのこっていてすっきりしないでいたや

うぐらいのことはわかっていたが、忙しいつるさんを無理 にさそってもという思いがしたものだから、私はひとり で、入院の翌日、リハビリセンターの登録をすませ、いち おう看護婦さんや、主任さんにあいさつしておいてから、 醍醐へ散歩に出た。むろん万歩計をもつことを主治医から すすめられた。

去年にくらべて、用心ぶかいせいもあって、私の足はい くらか遅かった。病院うらから、リハビリセンターのあい だの埋めたて道路をまっすぐに東へ向うと、しだいに勾配 になってゆくのだが、建売り住宅街をすぎると、すぐ奈良 街道に出た。そこは、日野法界寺と醍醐寺の中間あたり で、十字路へくると、「左醍醐寺、右法界寺」とよめる古 S石標が立っていた。鴨長明が住んだ庵跡はここから山へ 約一キロ登りつめた先に在るとの標示もあった。私は奈良 街道を北へ向って、両側の古い町家を眺めながら歩き、昔 はなかった三宝院駐車場にきて、大型バスや自家用車が、 ぎっしりつまった広場に、観光団体や個人やのグループが そこここで大声をあげてよびあうけしきを見た。駐車場を 出て左手のつき当たりに三宝院がある。その方角をみる と、ここも人の行列だった。さすがは天下の桜名所。四月 十五日は花も真っ盛りなのである。私は私で、ちょうど、 五十年近い前の春に、馬をつないだ日頃をえらんできてみ たのだが、駐車場から参道へ出たとたんに、重たげな花を

くも前のことゆえ、そのころの木は枯れて子が育っている
のかもしれなかった。枝垂れを支える竹の棒や、木枠が、
それほどにも古びていな S のを見ながら、参道の桜たちも
太いのはべつとして、私や仲間が馬をつないだのはもうな
くなっていて、いま見えている花ざかりの桜はその後植え
られたものかもしれぬと思った。

私は門前の枝垂れのことなども山根さんにくわしく聞い
ておけばよかったと思いながら、上石田町のバイパス道路
の角にあったコーヒー店に一服して、小栗栖の方を見てい
て、急に森本町の山科川沿いにあるという山根さんのアバ
ートがみたくなった。むろん彼女が愛嬌たっぷりに「トド
さん」とよんだ母親も不在だろうし、つるさんもいない と
とは想像できたけれど、ちょっとそのあたりを散歩してみ
たくなったのだった。ことしは約束どおり、春の醍醐へも
どってきたのであるから、不在の山根さんの家に表敬の意
もふくめたかった。私はその店でコーヒーセットをもとめ
て手提げ袋に入れた。

石田町をすぎて、例の「おくりす灸」の寺本さんの台地
からわずかに北へのぼった地点だったと思う。なるほど、
巨大な高層の団地ばかりが林立していて、その造成地をす
ぎると、川に沿うて三階建ての古いアパートがあった。古
Sといっても十数年前の建築だろう。市営アパートとして
あって、目につくのは岸に沿う三棟だけであった。山根さ

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でいる桜の木と駐車されている車や、草の生えた道肩をの こして舗装されている土堤道を、毎朝登校してくるであろ う子供たちのことを思いうかべながら桜の下を歩いたのだ った。窓をあけた部屋もあった。カーテンまで閉め切った 部屋もあった。古い三階のアパートに、「トドさんと住ん でいます。」とハガキにもあった山根さんの棟番号はわか らない。たぶん、土堤から見える部屋にちがいなかろう と、一、二階の窓のほとんど閉め切ってある低地に向っ て、歩いてゆくと、水の少ない山科川のえぐれた水面に、 小紋のような花びらがういて、水は反物のように南へうご きはしめた。その岸の斜面を、手をあげた五、六人の子供 らと、山根さんが走ってくる光景が浮かんでは消えた。染 井吉野の垂れた枝の間から、花びらが雪のように散るのを 眺めつくして私は病院へもどった。

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