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してしまった! というと、どういうわけだったかまだ左
眼だけ開けていた僕の視野のなかで、ノッペラボーの灰色
のお地蔵さんのように見える頭を振ってベソをかいた。

この夕暮、僕は自覚していたよりさらに手ひどいショッ
クのあらわれをきざんでいたかも知れない。受講取消しの
申告だけするつもりで寄った事務室の責任者は、これは例
外的な処置で他の人たちにいってくれては困ると注意して
から、形式的にだけ手数料を差し引いた授業料を返金して
くれた。それを繁君に手渡そうとしたが、かれは赤らんだ
眼に依固地さをあらわして拒否する。気の滅入る言い合い
を続けた結果、繁君は中古車のディーラーの年長の友達に
電話して、正当な理由で途中で受講をやめる際の払い戻し
の実例を尋ね、最初に払い込んだ金額の三分の一を父親に
返すのが正しい、という考えを示した。そして残額の二分
の一ずつを分けあおうというのである。あまりにとげとげ
しい言い合いへと展開することを、つまりは繁君を侮辱し
そうになるまでアクセラレートすることを望まぬ以上、僕
はその申し出を受けるほかなかった。

それから繁君と飛鳥山まで歩いたが、下宿までついて来
かねないかれを振り切るために、僕はそこへやって来た都
電に乗り込んだ。後に続いて乗って来ようかどうしようか
と思案する繁君の様子は憐れげだったが、僕は声をかけな
かったのである。大学の前を通って日本橋へ向かう途中、
もう丸善の営業時間は過ぎていると気がついて――繁君か

そもそも汽車の固い席で本を読んでいたまま終点まで読み つづけていたとしたなら.......

僕は漠然とした将来の設計ながらフランス文学・語学の
研究者として生きてゆくつもりだったから、眼の障害によ
って辞書をひくことが難かしくなってくることを考える
と、ゾクリと心が底揺れするようだった。それでいて思い
たって、ポケットにあったはずの自動車教習所の授業料の
残りで新しい眼鏡をあつらえに行こうともしなかったの
だ。そういえば大学の入学の際の身体検査で、なかばふざ
けるように片眼をよく閉ざさぬまま視力検査表の前で答え
の声を発していた光景がよみがえってくる。薄うすとは石
礫で片眼の視力が弱くなっていることを自覚しながら、そ
れを意識の表層ではっきり認知することを惧れていたとい
うことか?

僕は買ったまま畳の上に平積みしてある挿絵の入ったデ
ィケンズから『ニコラス・ニックルビー』をやはり横にな
ったまま読み続けー眼をめぐるもの思いに引き戻されぬ
かぎりは、またラジオの音楽に気をとられぬかぎりは
よく眠れなかったまま大学を休んだ三日目の夕方には読み
終った。満足感を味わいもしたが、それはいかにも通俗小
説の面白さだしニックルビー青年の生き方から学んだもの
はなにもないと、ディケンズの全作品に投した金額につい
てあらためて悔んだりもしていた.......
そうした退行症状のまま出かけて行った、あれ以来はじ

短篇集』とか......

繁君がなんとなくその書棚の本の列について防衛的な態
度を示したので、直接手にとることはできなかったが、僕
はその蔵書をつうじて靖一叔父さんという人にこの前会っ
た印象とはちがうリアリティーを感しとったのだった。と
ころが繁君も口を開くとすぐ靖一叔父さんに言及したので
ある。

Kさんと北海道に行く計画はだめになりましたけ
ど、ほかに免許を持っている人の目星はつけてありますか
らね。旅行はちゃんとやりとげますよ、詳しく手紙を書く
し、日記もつけてきますからね、小説は書いてください。
それよりKさんもお客になって一緒に来ますか?

|いや、自分でも運転するということで思い立っん だから。足手まといになるのはね。話は聞きたいけれど

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免許証持って同行してくれる人として考えてい るのはね、靖一叔父さんです。もすこしたってから説得に 行きますからね、その時はKさんも一緒に来てください。 われわれの計画をよく説明したいし。靖一叔父さんの方で もKさんに関心を持っていますよ、この前も勉強の「方 法」のことでなにかいっていたでしょう? 『駒場』の小 説も読んだしね、雑誌は母が見せんですが......

靖一叔父さんの別居している奥さんは夏枝叔母さんとS うんですが、彼女もね、靖一叔父さんが面白かったといっ

史の、教授が養成されるュースに乗っかっているブリリア ントな学生だった。当時からの婚約者と復員してすぐ結婚 して、靖一叔父さんは大学院に、夏校叔母さんは輸入が再 開された会社で父親の秘書の仕事を始めた。英語力抜群で そのうち実務上の有力なスタッフになった夏枝叔母さん と、大学院を終えるとすぐ母校の講師となった靖一叔父さ んは、理想的なカッブルと見えていたのである。しかし靖 一叔父さんが突然勤めをやめて山羊と弟とともに隠栖する ことになって、ふたりは別居するほかなくなった。中国で 兵士として靖一叔父さんが経験したことに、母親によれば その「現実離れ」は原因があるのだという。別居は仕方が ないが、夏枝叔母さんも靖一叔父さんを憎んでいるという のではない。一方は山羊と鶏を飼って本を読むだけの生 活、片方はダニー・ケイと一緒に日劇の舞台に立って、挨 拶の通訳をしたりするような暮し。むしろ靖一叔父さんの 身内の繁君の家族は夏枝叔母さんに同情をよせている。

さて夏枝叔母さんはアメリカの映画関係者とのつきあい も多く、よくパーティーをする。自分も英語の勉強のつも りで誘いに乗ってきたが、問題はおもだったお客が帰って から内輪だけでさらに飲むことだ。いつも結局は雑魚寝の ようなことになってしまう。自分は酒は飲まないが、靖一 叔父さんの甥として、もし夏枝叔母さんと性関係が生じで もしたらと気が気でない。今度はKさんと一緒だからいい けれど...... 夏枝叔母さんは会社のアメリカ人と寝ている

あの夜、僕は初対面の年長の女性の家でどうしてあれだ
け強い酒をガブ飲みすることになったのだろう? あきら
かなことは、突然に無闇に飲み始めた僕に紫君がいかにも
甲斐がいしく介添えしたことである。献身的な給仕役の繁
君が自分の周りを猿のように跳び廻っている様子が、暖色
のチリメン敷のような酔いの視野にいつも写っていた......

ところがパーティーに集った客たちが帰る段になって、
ゆったりと酔っている感じの夏枝叔母さんの脇で、酒場を
やっている人らしい、髪を極端にウエーヴさせて面長の顔
の両脇にたらしているボッチさんという女性がーずいぶ
ん後になってイタリアで美術館をめぐるうち、あまり良く
描けていない ボッティチェルリの絵で、記憶のなかの彼女
に顔立ちも髪型も似ている人物を見つけ、渾名の理由を納
得した―妙に弾れなれしく、かつは高圧的に、繁君と僕
に残るようにといったのだ。

酔いがさめてからも覚えていた、それに続く光景は、普
通の生活の場にヴィデのあるトイレとシャワーつきの浴室
があるのを初めて見る、という気持をいだきながら、そこ
でひとり裸になりシャワーを浴びているところ。そしてあ
らためて意識がくっきりしてみると、これもかって経験し
たことのない心地良さの特大のベッドに、痩せて細い身体
をはすかいに伸ばして横たわっている!しかもあれほど
強い酒をガブ飲みしていながら、ひと眠りしただけで体調
は万全、ノーテンキな笑いがこみあげてくるほど昂揚した

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