二番、西の丸(側室茶々発散、浅井長政選、秀頼母)お寒添 い、木下延重、石川頼明 三番、松の丸(側室竜子、京極高次妹)お輿添い、朽木元 網、石田正澄 四番、三の丸(側室、織田信長)お與添い、平塚為広、 太田牛一 五番、加賀殿(側室摩阿、前田利家娘)お輿添い、河原長 右衛門、吉田又左衛門 六番、東の御方(加賀殿侍女) 正室と側室の全員を出席させての大宴会であるが、以上 の女たちの輿が到着すると輿添S の武士は、用があればそ の時に迎いにゆくからといったん家へ帰し、女たちだけが 三宝院で衣装を替えて、思い思いのいでたちだったとあ る。盛装した女たちは、寺内の名花、所々方々の花園を訪 ね歩いた。道の左右に柵が設けられ、五色の慢幕を張りめ ぐらした中を、秀吉、秀頼の父子が先ず進み、これもあで やかな衣装だった、といっている。 三宝院の鎮守は山麓の清滝宮である。土塀に囲まれた院 の伽藍から少し東に寄った森の下にものさびてあった。こ の左に鐘楼。右手に朱塗りの五重塔がそびえていた。春も まだ浅い頃だから、桜以外の常緑樹はそれらの塔や伽藍を とりま S て沈んだふぜいで、花やぐ桜と対照的だったと甫 la すべてなごやかで、ああ、今日のこの陽がいつまでも小栗 ところで、醍醐寺はこの頃から下醍醐、上醍醐に分れて との沿道に増田長盛のように茶屋をひらいた武将もいた んの時代で、花喰う鳥に頭をなやました裏方がいて、工 夫発明した鈴つきの紅網は、まこと秀吉ならずとも誰もが 感心して眺めたものだろう。 太閤秀吉がこの世を去って、ざっと三百五十年後の、一 重靴馬隊にいた。二十六歳だった。ざっと五十年近く前 U.C. BERKELEY LIBRAR! は「猪首」といって、顔が左右に回らない人もいた。年齢 もまちまち、背丈の低いものや、高い者やがいて、みな病 人相であった。だが、そんなよせあつめの人間でも、馬卒 はつとまったというか。食糧や弾丸はこびは戦争には欠か せないことだといえるにしても運搬の中心は馬にあって、 兵隊は馬に従属していた。入隊した日に伊勢訛りの古兵が いった。 「おんだら、お前らは一銭五厘で集められるけんど、馬はそ んなわけにゆかんぞ、おんだら。運賃も高うついとるし、 遠S 北海道の馬主さんらが、丹精して育てなさった馬から よりすぐって軍馬になったんやで。大切にせんならんぞ」 もっとも、この当時は いまのように見るのもいやなほ ど、トラックや自動車はなかった。輻重隊には、昭和十九 年には自動車隊はあったけれど、馬もまだ貴重とされてい た。 さて、私たちは、三十頭の馬を醍醐寺の桜につないでい た。これは「大休止」といった。行軍の途中で、馬に水を 呑ませねばならぬ時は、水に近い川岸だとか、池のそばの 木に絡綱をくくりつけて、水装に汲んだ水を呑ませるので ある。この日も朝早くに墨染町を出て桃山御陵の北側の山 道を分け入り、深草大亀谷の切り通しから、小栗栖へ出 て、中山田や石田町の水田地帯をよこぎり、畷みちを醍醐 まで行軍していたからちょうどこの大休止は馬も兵も昼食 だぶきのそり使の屋根で、大きな菊の章を章りこんだ厚 ああ、と思わず声がでた。馬の背にも地めんにおいた鞍 私は当時、小瀬市庵の太閤記はよんでいなかった。した |