にいわずに立ち去られたといいます。 その噂が広まるや、さすがに右翼と自負していた連中が あの頃からもうすでに日本の右翼は、川俣の息のかかっ とにもかくにもあの頃の川俣の実力というのはその下に ずっと後になってある縁で知り合った、今じゃ派閥の領 胸をはっていったら川俣は頷いたが返事もしなかったそ うな。その間、随行の記者たちはただにやにや笑って眺め るだけ。事件が起こってもその時のことを思い起こして一 行の記事を書いた記者もいなかったそうです。まあ、日本 の新聞なんてそんな程度のものでしょう。とにかくあの頃 の川俣には怖いものなどありはしなかったろう。 しかし私が川俣をこのままにしておいたら大変なことに とにかくある日突然、国民もあっという問もなくあの男 あのしたたかなソヴィエトが漁業権の見返りになにを要 その中で川だけが客僚ながら南かられて同じ仲日を 批判し内閣をゆさぶった。首相が身命賭けてあの挙に出た のは主要閣僚の川俣とは当然相談合議の上のことでしょ う。それに背信したというのは、私は、あの漁業協定調印 の折にすでに安保改正を見こしていたソヴィエトから、反 米反安保の主要メンバーのとして打ちこまれていたのだ と思います。 あの時、よく訳もわからずに安保に反対した連中がこの 今になってそれを恥じたり後悔しているかどうかは知らな いが、私は自分があの頃の川俣の一連の去就を眺めながら 抱いた疑長と不信は正しかったと思っています。 ということで、これはあの男をなんとかしなくてはなら の社会を束ねている男の目くばりがあったし、思いこん あの男に世の中そう思いのままにはなりはしないぞと思 い知らせるために、いったい何をしたらいいのか決めかね を実際に備えることでしか集まりはしないといいました。 彼は陸軍の連中を信用せずに海軍士官が主体になってこ 今でも覚えていますが、彼はよく、「しょせん、天命も それをどうやって手にいれられるか考えている内に、遊 なお調べてみたら、その人は今は父の仕事の取り引き先 |