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「そんな情けねえ話はないでしょ。なんで、ただいっしょ にこいといってくれないんです。家を焼くなんてだけじゃ なし、あんな野郎、ぶっ殺したっていいんだ」 「そこまではしなくていい」 「あんたと一緒なら、俺はどこまででいきますよ」 いわれて私は思わず彼の手を握ってやったと思います。

ガソリン缶を二つ買い込み、その上で十二月の一日に家
の様子を見にいきました。まだ家の周りには職人たちの出
入りがあって、質すと引っ越しは月の半ばということだっ
た。ならば決行は十五日の夜と決めて帰ってきたが、なぜ
かその夜から急に眠れなくなった。

身重の女房には、子供を生む前の体にさわりはしないか
と思ったが、生まれてしまったらなおいいにくくなろう
と、二月ほど前、その内に川俣の家を焼くつもりだと打ち
明けてはいました。驚いた顔はしたがなにもいわなかっ
た。後で聞いたら私がいつもそんな類いのことをいってい
たからだそうです。

私にすれば初めての子供が生まれたということが心の励
みにもなり、またさまたげにもなりました。これで何より
も確かなものをこの世に残せたという安堵と、生まれたば
かりの子供への親として当然の愛着でしょう。しかし、生
まれた赤ん坊を抱く度何かが体の内でふっ切れていくよう
な気がしたんです。

「私のことは心配しなくてもいいのよ、こうして子供が出 来たし、私はいつまでも待てるわ。だから好きなようにし て下さい。いわれて止めるあなたしゃないでしょ?それよ り、やろうとしたことをやらずにしまって、それで一生後 悔するのを見るのはいやだわ」 「本当にそう思ってくれるか」 「本当ょ」

彼女はいってくれました。しかし自分でそういった言葉
について後で後悔したかもしれません。

焼き討ちに出かける直前に私は女房に、玄関に崎山を
待たせながらいったんです。
「俺はこれからいった通りのことをしに出かけるが、正直
いって今でも迷っているよ。でもな、お前もいってくれた
通り、今ここで止めても誰も俺を咎めはしまいが、後で俺
が俺を咎め続けるだろうから、やっぱりいくことにする」
「わかっていますわ」
彼女はいいました。

十二月十五日の夜十時前あの男の家のある丘の麓に車を 乗りつけました。雨を含んだ冷たい風が吹きさらす夜で、 辺りには人影もなかった。二人を車に残して舗装の出来上 がった道を上まで上ってみると、都合のいいことに高い塀 からなにからすっかり出来上がっているのに、肝心の門だ けが間に合わず薄いベニアの仮戸が門柱に立て掛けられて

まだなにも疑わずにいたようです。しかしそのまま彼女の 目の前に土足のまま靴ぬぎから畳み敷きの式台に上がって くる二人を見てやっとただならぬことと気づいたようだっ

た。

なにか叫びそうになった彼女に、私はこれからなにが起
ころうとしているのかを説明してやるつもりで、ゆっくり
胸元から拳銃をとり出して見せました。
「俺たちは誰に害をするつもりはないが、先生はどこだ
ね」

最初に聞いた通り川俣は地方に出向いて不在で、奥さん
だけが内にいるという。
「奥さんのところまで案内してくれ。いった通り絶対に害
はしない、ただ逃げるという訳にはいかないよ」

幅広く長い廊下にもいかにも出来立てらしく玄関で嗅ぐ
よりも高く濃い木の香がたちこめていて、木づくりながら
磨かれて光った廊下を踏んでいく自分の靴の固い音がいか
にも不似合いなものに聞こえたのを覚えています。廊下の
長さといい屋敷の内の深さといい
「こいつは赤穂浪士の討ち入りした吉良の屋敷くらいのも
んだな」

崎山に振り返っていったが、彼の方は緊張でか返事もな
かった。

とにかく、今まで見たこともないような豪勢な家でし た。その中を今現にはいた革靴のまま土足で歩いている自

間もなく女中と一緒に二十そこそこの若い男が部屋を覗
き何か叫んだが、私が黙って手にした拳銃を向けてかまえ
るとすぐに黙った。
「お前は奥さんをかばって粗相のないようにしろ。これか
らこの家に火をつけるからな」

手にした物をかざしたまま いい、崎山に促すと彼は座っ
たままの奥さんの反対側の女中の足元に向かってガソリン
缶の中身をぶちまけました。僅か一缶の中身があんなに量
のあるものとは思わなかった。とたんにもの凄い匂いがあ
たりにたちこめ、崎山は顔をそらすようにして体ごとゆす
って弾みをつけながら中身を撒き散らしていました。
「畳だけじゃなし、壁と模にもかけろ」

いわれるまま崎山はあちこち向きを変えてぶちまけ、そ
れが女中の裾にかかって、彼女が奥さんの方にむかって逃
げようとして広がった燃料を踏んで滑って転び、私は崎山
に促して彼女を助けて立たせ奥さんの後ろに回しました。
一缶だけでも揮発の匂いはすさまじく眩暈がし息がつまり
そうだった。
「雨戸を開けてみんな庭に出るんだ」
いうと、救われたように書生が走っていって雨戸を開け

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その瞬間外に吹いていた風が思いがけぬほど激しく室内 に吹き込んで、一瞬にしてたちこめていたものを吹き払っ た。私もそれで冷静さをとり戻し、手にしたもので彼等を

それは本当に、眺めても眺めても見修きることのない見 ものだった。数奇をこらした豪壮な屋敷が風の下で自らも 巨きな風を巻き起こし、轟く炎の柱を天に向かって支えな がらますます太く激しく燃え上がっていました。戦争中の 空襲の惨禍や他人の家の火事なんぞでは味あうことのなか った、ふるいつきたくなるようなものを私はあの手作りの 豪勢な焚き火の前で感しつづけていました。

それにしてもなんで巨大な炎というやつは、人間が日頃 隠している本能をさらけ出しつきつけてくれるのだろう。 火の粉を浴びながら炎の間近で私が最後に感じとったもの は、いわば自分の一種の本卦域りだったのかもしれませ ん。私はあの時にこそ自分の誕生を信じていました。二度 目ではあろうと、しかし自らそう覚れたからこそ、あれこ そが私自身の誕生だったんです。だからこそそれは、眺め ても眺めても倦きることのない見ものでした。

火の回りは想像していたよりもはるかに早く激しく、最 初懸念していたように消防が飛んできて消してしまうなど という暇はまったくなかった。実際にサイレンを鳴らして 消防自動車が丘の上の門前までやってきた時には、私が最 初に火をつけた母屋の一番奥の棟は燃え上がって焼け尽く し崩れ落ちていきました。こんな事態を予測した者など誰 もいるはずはなかったろうからあたりには家の水道のため の水源しかなく、一度上までやってきた車がまた下まで下

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