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二番、西の丸(側室茶々発散、浅井長政選、秀頼母)お寒添 い、木下延重、石川頼明

三番、松の丸(側室竜子、京極高次妹)お輿添い、朽木元 網、石田正澄

四番、三の丸(側室、織田信長)お與添い、平塚為広、 太田牛一

五番、加賀殿(側室摩阿、前田利家娘)お輿添い、河原長 右衛門、吉田又左衛門

六番、東の御方(加賀殿侍女)

正室と側室の全員を出席させての大宴会であるが、以上 の女たちの輿が到着すると輿添S の武士は、用があればそ の時に迎いにゆくからといったん家へ帰し、女たちだけが 三宝院で衣装を替えて、思い思いのいでたちだっとあ る。盛装した女たちは、寺内の名花、所々方々の花園を訪 ね歩いた。道の左右に柵が設けられ、五色の慢幕を張りめ ぐらした中を、秀吉、秀頼の父子が先ず進み、これもあで やかな衣装だった、といっている。

三宝院の鎮守は山麓の清滝宮である。土塀に囲まれた院 の伽藍から少し東に寄った森の下にものさびてあった。こ の左に鐘楼。右手に朱塗りの五重塔がそびえていた。春も まだ浅い頃だから、桜以外の常緑樹はそれらの塔や伽藍を とりま S て沈んだふぜいで、花やぐ桜と対照的だっと甫

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すべてなごやかで、ああ、今日のこの陽がいつまでも小栗
栖の背山に落ちないでいてくれればありがたいものを、と
願いつつ、男女はいつまでも花に戯れ、水に心を澄まして
楽しんでいたという。常にないことであった、と聞庵はい
くらか興奮して書いている。太閤一代記を語った雨庵は、
晩年にさしかかってとつぜんはなやぐ醍醐の花見を調子を
高めて語るのである。

ところで、醍醐寺はこの頃から下醍醐、上醍醐に分れて
いたようだ。むろん下醍醐は今も三宝院と五重塔のある山
麓であって、奈良街道をはさんで南北にのびる町家もふく
んでいた。上醍醐は北端山から奥山へのぼりつめる醍醐山
頂までまがりくねった谷の道もふくめてそう呼んだのだろ
う。上醍醐へゆく途中の谷の両側や坂道をはさんで、この
日桜が咲きすぎもせず、散りそめもせずにあり、それらの
花を綿のようにのせた技はひろびろと四方へ張って見えた
のだろう。

との沿道に増田長盛のように茶屋をひらいた武将もいた
が、部人形や櫛、針道具まで女房たちに売る店もでたよう
だし、また上醍醐の谷間のところどころの花の上に紅の糸
で編んだ網を張りめぐらせて、鈴をむすびつけてあるのが
みえた。これは鳥が折角の花を喰いにくるのを追いはらう
仕掛であった。春の鳥はひよどりやつぐみの類で、花を喰
い蜜を吸ってから北国へ帰ってゆくのだった。太閤がこの

んの時代で、花喰う鳥に頭をなやました裏方がいて、工 夫発明した鈴つきの紅網は、まこと秀吉ならずとも誰もが 感心して眺めたものだろう。

太閤秀吉がこの世を去って、ざっと三百五十年後の、一
九四四年(昭和十九年)の四月半ばに、私は、醍醐の三宝
院前にきて、五重塔へ向う参道の石畳をはさんで満開だっ
た桜樹に馬をつないだ。
当時、私は、伏見墨染町にあった陸軍の中部四十六部隊

重靴馬隊にいた。二十六歳だった。ざっと五十年近く前
になる。昭和十九年は敗戦の前年で、大本営の発表では冬
正月にインパール作戦に入って戦果をあげている様子だっ
たが、じつは、その二月に米軍がマーシャル群島に上陸し
ていて、クエゼリンやルオットの日本軍は全滅していた。
その前年にもマキン、タラワで全滅しているのに、むろ
ん、敗けた事情は国民に報らされていず、朝鮮や台湾で徴
兵制が布かれたなども新聞も読めなかった兵隊にはわかっ
ていなかった。「何が何でも勝ちぬくぞ」とか「撃ちてし
止まん」などといった情報局のつくった言葉にのって、男
子の本懐は前線に出て国のために死ぬにあったから、私た
ち伏見の馬卒も、いつ南方前線に出発せねばならぬかわか
らず、いつでもゆける覚悟を決めた毎日であった。
だが、それにしても自慢にならない兵科だった。いくら

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は「猪首」といって、顔が左右に回らない人もいた。年齢 もまちまち、背丈の低いものや、高い者やがいて、みな病 人相であった。だが、そんなよせあつめの人間でも、馬卒 はつとまったというか。食糧や弾丸はこびは戦争には欠か せないことだといえるにしても運搬の中心は馬にあって、 兵隊は馬に従属していた。入隊した日に伊勢訛りの古兵が いった。 「おんだら、お前らは一銭五厘で集められるけんど、馬はそ んなわけにゆかんぞ、おんだら。運賃も高うついとるし、 遠S 北海道の馬主さんらが、丹精して育てなさった馬から よりすぐって軍馬になったんやで。大切にせんならんぞ」

もっとも、この当時は いまのように見るのもいやなほ ど、トラックや自動車はなかった。輻重隊には、昭和十九 年には自動車隊はあったけれど、馬もまだ貴重とされてい

た。

さて、私たちは、三十頭の馬を醍醐寺の桜につないでい た。これは「大休止」といった。行軍の途中で、馬に水を 呑ませねばならぬ時は、水に近い川岸だとか、池のそばの 木に絡綱をくくりつけて、水装に汲んだ水を呑ませるので ある。この日も朝早くに墨染町を出て桃山御陵の北側の山 道を分け入り、深草大亀谷の切り通しから、小栗栖へ出 て、中山田や石田町の水田地帯をよこぎり、畷みちを醍醐 まで行軍していたからちょうどこの大休止は馬も兵も昼食

だぶきのそり使の屋根で、大きな菊の章を章りこんだ厚
S扉板の開しられた門の前であった。その手前に長い木枠
にはめこまれた柵がある。中央はえぐれた石畳で、丸瓦を
ふいた土塀が、鳥が羽根をひろげたようにかたちよくつき
出て、一方は三宝院の入口へ、一方は五重塔の方へ、長く
のびていた。その反対側、つまり私の馬をつないでいる側
にも土塀があって、桜樹は、三間ほど間隔をおいて、両側
に大小千鳥ふうに植わって、前方、つまり五重塔のある正
面朱の山門に向い、綿をのせたような白やうす桃いろにた
わんだ技を、両方から攻めて低くたれていた。その花の木
には、もうはや散ったのもあれば、いまさかりどきのもあ
る。まちまちながら、かさなってあれば、やはり花の雲で
あった。蛇がとんでいた。ぶんぶんな い ていた。馬は神経
質に尾をふってたかる虹をはらった。兵も花を見あげ、馬
も見あげ、頭をうごかすたびに枝はゆれて、花がちる。

ああ、と思わず声がでた。馬の背にも地めんにおいた鞍
や毛布や、叉銃線にも花片はちりかかった。ぼくら連れの
兵はみな同じように、眼をみはって花のちるのを眺めてい
た。

私は当時、小瀬市庵の太閤記はよんでいなかった。した
がって、三百五十年も前に、増田長盛が茶屋をだした慶長
の花見の宴の様子など知りもしなかった。むろん鳥よけの
鈴をならして風流にも鳥をよせつけなくした紅糸の網も。

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