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の作りが、演蝮を正面とすると、むかつて左
側に人間の背丈より高く作られた裁判官席が
並び、それと向ひ合つて右側に被告席、その
前が二列の弁護人席、中央に主任弁護人と主
任検察官の長方形の机の席、演壞寄りの中央
に検事席が置かれるといった、混み入った造
作のせので、 たらう。

大きくみえる家も、とりとはしてしまふ
と、敷地跡が意外に狭くみえるのとおなじ道
理である。当時は左右の窓際を板壁で仕切
り、六十四キロワットのシャンデリアが異様
に明るく法廷を照らしてみた。

いま、からんとした講堂はすでに海暗くな
りかかってみる。案内の自衛官の簡単な説明
のあとで、富士信夫氏の東京裁判を回想する
スピイチがあった。

富士氏は、昭和二十一年五月三日開廷以
来、九二五日、公判回数四二三回のはとんど
すべてを、二階の傍聴席で詳細なメモをと
り、それを再構成した長大な東京裁判論を書
き、『私の見た東京裁判』上下の千頁を超え
る著作として講談社学術文庫から出してみ

を、具体的な数字を挙げて、述べられた。ま
た、判決文が検察側の論述の誤り、田中隆吉
証人と田中新一証人とを混同した記述をその
まま踏襲して武藤章被告について判決した
り、広田弘毅について外務大臣と軍事参議官
を兼ねてみたといふ、ありえないミスを犯し
て てみることを指摘された。

なかでも感銘したのは、インドのパル判事
の態度で、法廷に最初にあらはれた日、裁判
官席からまづ被告席にむかつて合掌した、と
いふ話である。このとき富士氏は声をつまら
せて、しばらく瞑目した。あの感動的な『パ
ル判決書」の精神を端的に物語る挿話であ

る。

しかし東京裁判の記録フィルムのどこにも
この場面はない さうである。欧米人のカメラ
マンにパル判事の合掌は何の感銘ももたらさ
なかったのであらうか。

スピイチがをはったとき、講堂はすっかり
夕闇に包まれてみた。また小型バスに乗って
ホテルの玄関先で解散したときは、すっかり
暗くなってみた。激しく往き交ふ車のライト
を眺めながら、東京裁判史観が日本人を意識
的無意識的に拘束しつづけるのは、これから
いつまでつづくのだらうと思った。

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や~低めの声で語られたスピイチは、明晰 でむだがなく、あの裁判の判決が、検察側の 証拠のみを基礎として下されたこと、弁護側 の提出した証拠のほとんどが却下されたこと

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もって
わたしにくちづけしてくだ さるよう

に。
ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く
あなたの香油、流れるその香油のように

あなたの名はかぐわしい」(新共同訳)
にはじまる恋愛詩の『雅歌』(原題は『歌の
中の歌」)が含まれ、官能的な性愛が美しく譲
えられている。

との『雅歌』は、ユダヤ教を母胎とするキ
リスト教の聖書にも つかれ、またイエス
・キリストの言行録である福音書にも、イエ
スがカナの婚宴に出席して水を葡萄酒に変え
た奇跡などによって、性愛をも祝福した態度
が語られている。

もともと当時のユダヤの宗教思想において
は、人間の肉体をいやしいものとは見ず、霊
の宿る宮とする霊肉一体で、「霊は清く、肉
体は汚れている」という思想はない。したが
ってヘレニズムのようにエロスを低次元の愛
と見ることもなく、神の愛は至行の妻を買い
戻す夫の愛 (ホセア書)や、家出をした放蕩息
子の帰宅をよろこぶ父親の愛(ルカによる福音

などに響えられている。

教の親近性を感じさせられた。

社会心理学者のエーリッヒ・フロムは、
「人間のもっとも深い欲求は、いかにして他
から分離された人間の実存を克服するか、い
かにして合一を成就するかであり、宗教及び
哲学の歴史は、これらの答の歴史である」
(『愛するということ』紀伊國屋書店刊)と述べて
いるが、洋の東西を問わず古代の自然宗教の
祭儀において、神前で乱舞混交が行われたと
とはよく知られている。つまり、神観念も自
我意識も発達していない古代では、神前での
混交という生殖行為を通して大地の豊穣を祈
願すると同時に、男女の性における合一がそ
のまま、神との合一と信じられていたのであ
り、性愛と宗教は深く結びついていた。

自然宗教とは異って唯一神を信仰し、夫婦
間の他の性愛を厳しく禁していたユダヤ教に
おいても、その正典である旧約聖書には、

い。戦争中の社会事情からとはいえ、傷のあ
る!で毎朝水風呂に入るという苦行的行為を
し、遂には合一の境地での死を求めるにもか
かわらず、自己陶酔的な印象をうける。

この小説は三人称で書かれているが、視点
が比奈子の方に図かれていて、比奈子ほどに
は対象への献身が描かれていないせいか。あ
るいは、性愛の過程において比奈子には意識
的な殺意はないが、正隆には殺されることが
強い願望になっているからか。

カフカの小説に、『断食行者』という短篇
がある。断食をしてもすこしも辛くない才能
を持つ行者が、見世物として断食を行ってい
るうちに食べものの匂いを嗅ぐとむかつくほ
どになり、断食をつづけることに熱中して、
見世物としての意味を失ってからもつづけ、
遂には息絶える話であるが、正降はこの断食
行者に似通っているように思われる。
〈彼女は彼に力を加えるたびに、自分の全身
の力の半ばが彼に噴き入るのを感した。こう
まで苦しめられているという彼の念いと当
が、歓びで全身を貫く力は、あまりにも強く
彼女の肉体に伝わった(傍点筆者)と、夫婦の
合一の境地が表現されているが、小説の発端
においてすでにマゾヒストである正隆にとっ

て、肉体的苦痛はすでに、苦痛。と呼ぶもの
ではなくて、『甘美"といえるものなのでは
ないか。したがって、彼は比奈子を使験する
誘惑者であり、彼の苦行的行為もその死もカ
フカの断食行者と同様のものであって、自我
を越えた行為とはいえない。そこに、殉教者
との根本的な懸隔がある。

このことは神への帰依においても起りう
る。鞭打ちや寒中の水垢離などの苦行を行っ
て死に到っても、神との合一感のあまり投身
自殺をしても、殉教とはいえない。やはり、
「みいらになったみいら採り」にすぎない。

もちろん、比奈子にも殺すことの歓びはあ
ろうが、それよりも正座への愛の方が大き
く、彼の願望を叶えるために電燈の紐へ蘇

157

る。

ファウストは夜の回路を通って大地の母た ちの国へ赴くのだが、〈自分の半ばはこの人 と一緒に向うへ行くのだ、この人の半ばはわ たしと共にいつまでも在るのだ、と信じて可 視的な世界を突き破った比奈子は、この後、 どこへ行くのか。仏教的な言葉を借りて言え郎 ば、性愛に"還相"はあるのか。気にかかる ことである。

1992

佐々木幹郎

赤道上空三万六千キロの高さに静止衛星が
いて、そこから電波が飛んでくる。初めて聞
いたとき、これは新しい宗教だな、と思っ
た。スピーカーからは静かな音楽が流れ、そ
れが途切れると波の音が長く続く。この波の
音が部屋中に広がると、まるで海岸の崖っぷ
ちにいるような穏やかな気分になる。音質は
デジタルPCM方式で鮮明。コマーシャルは
一切なし。若者向けというよりは、中高年向
きの音楽局なのだ。

一個の衛星が絶えず地球の一定の範囲を見
つめて浮いている。そこから音楽が流れてく
る。そしてときおり「こちらは、セント・ギ
ガです」という女性の声が入る。この局を宗
教専門の局にしたら、宇宙から神の声が聞こ
える、というわけだ。

そう考え、わたしがセント・ギガを聞き始
めた理由を思い出して、ぎょっとした。詩が
宇宙から届けられるとして、それにふさわし.
い言葉というのは何だろうか?

自然の音や鳥や虫の声ならまだいい。人間
の声が、たとえば波の音に対抗できるだろう
か。

わたしはこれまで、機会があるごとに自作
詩の朗読をやってきた。その経験から言え
ば、朗読というのは言葉を声に出して伝える

ある。どんな局なのか、詩を書く前にとにか
く聞いてみることにしたのだ。

セント・ギガは当時実験放送の段階で、B
Sチューナーさえあれば誰でも聞くことが出
来た。昨年九月からは本放送が開始され、そ
れ以降、会員になっていない人には音声が届
かな い ように、スクランブル信号が発射され
ている。これを解除するためには局に登録し
て、デコーダーというスクランブル解除のた
めの機械を手に入れなければならない。聞け
るようになるまでには、実に煩雑な手続きが
必要だ。

とにかくわたしは スクランブルのかかった
九月以降に、驚くほど面倒な手続きをして会
員になったのだが、それ以前はBSチューナ
1だけで、セント・ギガを聞いていた。午後
一時頃の太陽の位置をめがけて、パラボラア
ンテナを立てること。そこが静止衛星の位置
だと、秋葉原の電器屋が教え れた。

もう一つは今でもラジオで定時に流れてく
る「気象情報」である。ここでは「南鳥島、
風力3気圧何ミリバール」というように、
日本列島を中心とするアジアの土地の名前
が、たんたんと読み上げられる。

わたしがセント・ギガ用に作った最初の作
品は、NHKの気象情報の声を想定したもの
だった。放送当日の気象情報を利用し、その
声を前後において真ん中に詩の言葉を入れる
ことにした。作品の中では、雲がヒマラヤの山
から沸き上がって、アジアのモンスーン地帯
を流れていく。波がその下で揺れている。詩
の部分では、ゆっくりと揺れる声を求めて、
伝承されている子守歌の断片を挿入した。

しかし、この試みは失敗だった。実際に放
送された声を聞いたとき に は、びっくり し
た。あの単調なNHKの声を想定していたの
に、その日の男性の声優はやたらとドラマチ
ックに気象情報を読み上げ、詩の部分では女
性の甘い声が情感を盛り上げてくる。そして
背後の音楽ときたら、さらに情感を盛り上げ
ようとして歌いあげる。

ブロデューサーに会うと、そういうふうに
なった理由がよくわかった。詩の朗読部分と
背後の音楽とは独立して別々に録音し、その
テープを後で組み合わせたというのだ。ディ

レクターもそれぞれ違う。これでは声と音の
足算である。ドラマチックになるはずだっ
た。人間の声も、鳥の声や風の音のように聞
けたらいいのにね。そうでなければ、言葉な
どなくしてしまったほうがどんなにいいか。

二度目に作品を依頼されたときは、声と音
楽をライブでやってみると、局のほうから言
ってきた。十月の満月の夜に放送すると S
う。

わたしは月をテーマに三つの作品を書い
た。一つは、秋の七草をゆっくりと読み上
げ、日本式の花鳥風月を題材にしたもの。二
つめは、アメリカインディアンの詩をモチー
フにしたもの。三つめは、竹取物語を題材
して、月に帰るかぐや姫が地球に残る人にさ
さやく言葉。

どんなふうになるのか楽しみしていた
ら、三つのうち二つがライブで、他の一つは
今までと同じ方法で、というふうに作られ
た。ライブでやった作品は、格段に面白かっ
た。こんなにも差がつくのかと思えるほど、
言葉が生きていたのである。当日はスタジオ
のミュージシ ンたちも、初めての経験で興
奮状態になったと聞かされた。

コオロギやスズムシの鳴き声が美しいの
は、やはり自分の出す音を聞 い て いるからに
違いない。

(了)

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